風に吹かれて 雲に誘われて

 

しまなみの熱い1日


2000年6月1日













   2002年6月に初めて100キロマラソンに挑戦した大会です。この完走記は2002年「旅」の<第11回JTB旅行記賞>に応募して第1次選考を通過しました。

 


 朝靄の中、ようやくお城の輪郭が浮かび上がってきた。
今日から6月だというのに、さすがに夜明け前では肌寒く感じられた。まばらだった人々が段々増えてきた。偉大なるウルトラランナー達が集まってきたのだ。
 6月1日、広島県福山市福山城広場。
ここが、2002年しまなみ海道100キロウルトラ遠足のスタート地点だ。これから四国の今治まで、恐ろしく長い距離に挑もうとするというのに、フルマラソンの大会などでは感じられない和気藹々とした雰囲気があった。しかし、そのなかにあって、私だけが場違いな所に来てしまった様に思えてならない。実力も無いのになぜ参加してしまったのか。絶壁の上から飛び込もうとしている様な気分だった。
(明日香は応援してくれるのだろうか。)


 無謀にも私が100キロマラソンに挑戦しようと思いたったのは、自分の体力の限界がどれ程なのか試してみたかったし、あわよくばウルトラランナーに成りたいという野望があった。そして、いつの日か何日も何処までも走り続けるジャーニーランに参加して「旅」をしてみたいと思った。学生時代に「旅」とは自分の力で流離ものだと思い込み、自転車を駆って、北海道から九州まで日本中を放浪した青春時代の熱い情熱が蘇ったのかもしれない。しかし、誰のサポートもなく走り続けるジャーニーランに参加する程、今の私には体力も気力もない。そこで、まずは「旅」として魅力を感じられるウルトラマラソン大会を探した。
 しまなみ海道100キロウルトラ遠足は、広島県の福山市から愛媛県の今治市まで瀬戸内海の島々を走って渡るという「旅」の魅力がいっぱいの大会だと思った。主催者は北米大陸4700キロを走破する「トランスアメリカ・フットレース」を日本人でただひとり2度も完走された日本のウルトラランナーの先駆者、海宝道義氏である。海宝さんの主旨は制限時間を越えても完走する意志のあるランナーがいる限りゴールを開放するというものだ。そして、海宝さん自身が最後のランナーがゴールするまで何時間でも待っていてくれる。しかも、その制限時間が16時間と他の大会に比べ2時間ほど緩やかなのだ。


 5月31日15時、新大阪発の新幹線で福山に向かった。福山は広島県の第2の規模の都市で福山城を中心とした城下町だ。福山城はその昔徳川家康のいとこにあたる水野勝成が築いた名城だそうだ。そのお城を散策する。
(明日、いよいよここをスタートするのだ。)と思うと感無量の面持ちになる。
 ビジネスホテルにチェックインした後にニューキャスルホテルのロビーで受付を済ませた。そして今回のもうひとつの楽しみが待っていた。ウルトラランナー達がインターネット上で繋がるメーリングリストのUMML(ウルトラマラソンメーリングリスト)の前夜祭が始まるのだった。初めてのウルトラマラソンなのでベテランの方々と色々と交際を持ちたくて今回入会したのだった。普段はメールネームでしか知らない人々と顔合わせをするのだ。受付会場の近くの居酒屋で30人程集まり自己紹介をしていく。互いに知り合いも多いのだろうが、私は初めてなので緊張していた。しかし、それもアルコールが程良くまわってくるとしだいにうち解けてきた。意外と平均年齢は高く40から50歳位の人が多い。自己紹介の番が私にまわってきた。
 「兵庫県川西市から来ました。フルマラソンは数回完走した事がありますが、100キロは初めてなので色々とアドバイスをお願いします。特に7つ有るしまなみ海道の橋は、高低差60メートルの登り降りが大変だと聞きましたが?」
すると、向かいに座っていた人が、
 「知らない方がいいよ。」
と意味ありげに笑った。
 250キロマラソンを完走した強者や、去年やっとの思いでしまなみ海道を完走した人、または、去年リタイヤしたので今年こそリベンジをしたいと言う人など様々な経験談やアドバイスで盛り上がった。幹事さんは、
 「明日の事を考えて、今日は食べる方を中心にして飲むのは程々にした方がいいですよ。」と言うが、酔うほどに夜は深けていった。

 「まもなく、スタートです。この大会は競技性のものでは有りません。交通規制もしていないので、ちゃんと交通ルールを守って、安全に今治城にゴールして下さい。」
楽しかった前夜祭を思い出すと同時に、アルコールの抜けきっていない自分を罵った。緊張感の高ぶりと二日酔いで気分が悪くなる。(幹事さんの言う事を聞いておけば…。)
「パ〜ン」という号砲で午前5時にスタートした。ゾロゾロと700人の人波が動き出す。
「行ってきま〜す。」
「行ってらしゃ〜い。」
ボランティアや応援の人達が送り出す。
「ぼちぼち行きますか。」
静かに風が吹き始めた。
何なんだろう。この和やかさは。

 まだ明けきらない福山の市街地を抜け、国道2号線を駆けて行った。さわやかな朝風が汗を拭い去ってゆく。最初のエードステーションがちょうど5キロの地点にあった。ここまで35分。
(良いペースだ。このまま走り切れたらいいのにな。)と甘い事を考える。
 エードステーションで給水を受ける。この大会では原則5キロごとにこの様なエードステーションが設けてある。朝早くから準備をしてくれるボランティアの人々に頭が下がる。途中の2号線のトンネルは排気ガスで息苦しく、さらに大型トラックの轟音で身がすくむ。最初のしまなみ海道を渡る尾道大橋まで、21キロある。ちょうどハーフマラソンの距離だ。思えば2年前の6月に初めてハーフマラソンを完走出来たのだった。


 マラソンを初めたのは約3年前。当時、仕事に追われ忙しい毎日だった。しかし、大学の頃に自転車で日本中を走り回った、という自惚れも有り健康には自身があった。ところが、ある日突然歩けなくなった。足の先が激痛に襲われた。主治医に宣告された。
「血液検査の結果、尿酸値が高い。明らかに痛風です。それと、肝臓の値もよくない。運動不足に太りすぎ、酒、飽食が原因です。」
 健康だと思っていただけにショックが大きかった。何とかしなければと、ウォーキングを始めた。歩いているうちに少し走ってみたくなった。500メートルで息が切れた。何と体力のない事か。でも、あきらめずに少しずつ距離を伸ばしていった。1キロ、2キロ、5キロそして、10キロ。そして、初めてレースにでた。大阪舞島の10キロレースだった。ゴールした時は、息が上がってしまって立ち上がれなかった。苦しかった。しかし、心の中を何かが吹き抜けた。


 20キロ地点のエードステーションで水とバナナを戴き、見上げた。尾道大橋だ。
(いよいよ瀬戸内海を走って渡るのだ。)
という意気込みに震えた。しかし、ここからフルマラソンの2倍の距離を走ると思うと少し気が重くなる。
 橋に向かって登り坂が続く。歩行者道に入った所で前を行く人の大きな溜息が聞こえた。見上げると急坂に階段が延々と続いている。(これか!)と思うと同時に前夜祭で(知らない方がいいよ。)と意味ありげに笑った人の顔が浮かんだ。
 20キロ走って来た足にはこの階段は応えた。まだ最初の橋だというのに。

 最初の島は向島だ。橋を渡りきると自動車道と別れて一般道に降りる。みかん農園が続く。緑の匂いに噎びそうになる。
そろそろ8時だ。3時間近く走り続けて来た事になる。沿道で島の人達の声援を受ける。女の子が応援してくれた。
 「がんばって。」
 「ありがとう。」
小学校1,2年生ぐらいだろうか。明日香の事がふっとよぎる。
 道は海岸線にでた。おばあさんがトロ箱を広げて魚の露天商を行っていた。何人かのランナーが足を止める。新鮮な魚がたくさん並んでいた。ひとりの女性ランナーが言った。
 「おいしそう。でも、くやしい。」
 「そりゃ、今治まで魚を担いでは走れまい。」
 「そりゃそうだ。」
と笑いが起こった。
 だんだん暑くなってきた。汗がべた付いてきた。やっとの思いで因島大橋に着いたが、またまた遙か上に長い階段が続く。
 「ひぇ〜、これをまた登るのか!」
(知らない方がいいよ。)と言った人の顔が、また浮かんだ。もし、今後私が誰かに同じアドバイスを求められたら、ニッコリと笑ってこう答えるだろう。 「知らない方がいいよ。」
 登り坂の途中で声を掛けてきたランナーとお互いに写真を撮りあった。カメラを持って参加している人が多い。
 因島大橋は7つの橋の中でただひとつ歩行者・二輪車道と自動車道とが併走せず、自動車道の下を通り日陰になっていた。長い道を登り終えた後の潮風が涼しく心地よかった。雄大な景観の爽快感に包まれながら因島に渡る。この島は戦国時代、村上水軍という海賊の本拠地だった。
 35キロのエードステーションは、島に入ってすぐの所にあった。水軍みたいな体格のお兄さん達が、ランナーの為に一生懸命に生みかんジュースを絞ってくれている。
 「あんたらも大変じゃが、わしらもマラソンみたいなもんじゃ。」
と汗だくで笑いながらジュースを差し出してくれる。感謝の気持ちいっぱいで戴く。疲れた身体に染み込むほどおいしかった。
 大きな鉄工所の横を通り過ぎる。うだるよう暑さになってきた。後でわかった事だが、29度にもなり今年1番の気温を更新した様だ。道端の黄色の花が霞んで見える。
 41キロのエードステーションを通過した時は9時30分になっていた。フルマラソンの距離を4時間30分位だ。
(まあ、予定どおりだ。)とまだ甘い事を考える。地獄はこれからだというのに。
生口橋を渡って生口島に入り、海岸線を走って半分の49.5キロのエードステーションのある海洋センターにたどり着いた。ここで、スタート時に預けていた荷物を受け取って大休止とする。おにぎりを2つ頬ばって会館の中で座り込んだ。時間は11時、ここまで6時間だ。疲れきって無性に眠たかった。
(明日香、ここまで頑張れたよ。)



 1995年1月17日、出張先から徹夜で車を飛ばし川西の自宅に着いたのは、午前3時だった。出張中は家内と子供達を芦屋の家内の実家に行かせておいた。ひとり自宅で熟睡した。
夢を観た。家族が帰ってきたのだ。3歳の静香と4ヶ月の明日香を両腕に抱いていた。
 「静香、明日香お帰り。」
突然の激しい振動で叩き起こされた。そして、何回も何回も揺れた。
阪神淡路大震災だった。
 ふっと心配がよぎる。電話をしても通じない。ラジオのニュースでも阪神地区に大きな地震が発生した、としか情報が無い。取りあえず車で芦屋に向かった。
 ところが、道が無い。回れど回れど通行止めだ。連絡が取れない。気持ちばかりがあせる。やっと探しだした山道は大渋滞だった。芦屋まで普段1時間の道のりが6時間もかかった。景色が変わっていた。 不安と絶望の気持ちを押さえて実家に着いた、いや正確には数時間前まで家が建っていた場所にだ。全壊だった。気持ちを堪えて近所を尋ねれば,倒壊を免れた向かいの家に全員いた。無事に助け出されていたのだ。明日香を除いては。
 即死だった。この時ほど自分の無力が恨めしく悲しかった事はない。


 ふっと、時計を見ると40分も過ぎていた。あわてて、靴下を変え、写真を撮って戴いて出発した。休みすぎて全身が痛み強ばる。
ここからは未知の距離だ。どこまで行けるだろうか。
 生口島は、平山郁夫画伯の生誕地で記念美術館があり、遊歩道や海中の岩礁に彫刻やオブジェが点在して観光客の多い島だ。その観光客の間をランナーが風を切るように走り抜けて行く。声援はなかった。何か変わった物でも見るような視線を感じた。
 前を走る女性ランナーと同じペースで走った。と、いうよりペースを会わせてもらって付いて行った。それぐらい疲れていた。マイペースのその人は年の頃なら50歳くらいかな、と思われた。
 「こんにちは、どちらから来られたのですか?」
普段はどちらかというと人見知りする私だが、不思議と誰にでも声を掛けられた。
 「大阪です。今回で2回目なんです。」
と気さくに返答して戴いた。しばらく、併走して、色々と話をした。
 「後悔しない為にも、どんなに遅くてもいいから走り通そうと思うの。たとえ、走る形だけになっても絶対に歩いてはダメ。気持ちがなえてしまうから。」
 そのひと言に勇気を戴いた。(いつ歩こうか、もう疲れた。)と思っていたからだ。
(自分も後悔したくない。限界になっても走る姿勢は保とう。マイペース、マイペース、歩かない様にしよう。)と心に誓った。
 しばらく、海岸線を走ると砂浜に出た。足を海に浸けているランナーがいた。自分もかなり足が火照っているのに気がつく。
 「私、ここに来ると西宮浜を思い出すわ。」
「西宮浜」という言葉で去年の12月に参加した甲子園マラソンの事が頭を過ぎった。
明日香の事とマラソンを始めた事とは関係がない、と思っていた。忘れようとしていたのかもしれない。甲子園マラソンに参加を申し込んだ時には何とも思わなかったのだが、マラソンの主旨は、阪神淡路大震災復興記念となっていた。鈍感な私はスタートするまでいつもと変わらなかった。しかし、10キロ、20キロと走り、西宮浜をこえ復興された街並みを走るうちに、何故か段々感傷的になり、しだいに涙がこぼれそうになった。明日香の事が偲ばれてきたのだ。(たった4ヶ月しか一緒に居られなかったが、もし生きていたらもう小学校に上がっている頃だろうなあ。)
(お父ちゃん・・・。)
6歳になった明日香の声が聞こえた様な気がした。

 大三島へ渡る多々羅大橋は長かった。
 「この橋を渡ってすぐの多々羅しまなみ公園のエードステーションでは疲れたランナーが喜ぶ事が待っているわよ。」
その人は言った。多々羅大橋からの下りがまた急な坂道だった。痛む膝が悲鳴をあげる。

 もう時間は13時。やっとの事でエードステーションにたどり着くと、ボランティアの中学生が冷たいタオルを差し出してくれた。
 「ひゃあ、生き返った。」
本当に喜んだ。
 ここまで61キロ。体が動いているのが不思議なくらいだ。その女性ランナーとはここで別れた。もう少し休んで行きたかったから。
 携帯電話が鳴った。携帯電話を持ってマラソンに参加するのは初めてだったが、今回は必需品だった。母親からだった。
「いま何処、まだ走ってるの?私達もう今治に着いたよ。早くリタイヤして、バスに乗ってこっちにお出でよ。あまり、遅くなると料理屋さんがしまってしまうよ。」
業務連絡であった。
 「それじゃあ、応援に来ているのか、グルメに来ているのか、わからないじゃないか。」
 「お前の事を心配して言うているのに。あと、何時間待てばいいのかい。」
 「そんな事は自分でもわからないよ。わかるようになったら、こちらから連絡するから。もう、まったく。」
 

 今回、家内と子供達とで今治に来てもらう予定だった。ところが、長男の正樹の空手の試合と重なってしまったのだった。
「本当にごめんなさい、一緒に行けなくて。」
家内がすまなさそうに言った。
 「いいよ、いいよ、子供には子供の用事があるのだから。」
と答えた。
 しばらくして、私の母親とその友達が旅行を兼ねて今治まで応援に来てくれると言う。誰かがゴールで待っていてくれるのはやはり嬉しいものだ。少し問題があるけれど。


 大三島は大山祗神社が鎮座されている島だ。武将達の信仰を集め源義経の鎧などが奉納されている。司馬遼太郎著の「竜馬がゆく」で勝海舟がここに登場していた。いつかは訪れたいと思ったが、今はそんな余裕はない。
 大三島橋に向けて長い坂道を登る。息がきれ、足、足底、膝、腰などすべてが痛む。
やっとの思いで橋の上にたどり着く。そこからの眺望は素晴らしい。どこまでも青い海 水面が輝く。風薫り、ほんのひととき苦痛から開放してくれる。
(来て良かった。でも、これがマラソンじゃなければ。)
 坂の途中の木陰で昼寝をしているランナーがいた。余裕なのか、あきらめなのか。でも、とても気持ちが良さそうだ。
 伯方島に入るとすぐに、67キロのエードステーションがあった。冷たいタオルのサービスとポンジュースを戴く。
「次のエードステーションまであと3キロです。楽しいことが待っていますので頑張って下さい。」
出発の時、ボランティアの人がそう言って送り出してくれた。
(この大会は楽しみが多いんだなあ。)
素直に喜んだ。

 70キロ地点で既に14時30分だ。9時間30分も掛かっている。あと30キロ、制限時間まで6時間30分、このままペースが落ち続けても間に合うのか。でも、体は思う様には動かない。
「お疲れさま〜。ヤッホ〜。」
突然、大音響のスピーカーが鳴り響いた。70キロのエードステーションの大歓迎を受けたのだ。頭の中のモヤモヤがすっ飛んだ。
「ヤッホ〜。」
思わずと手を上げていた。
 ここのエードステーションは、島の婦人会が中心に催されていた。冷たい素麺を戴いたり、トレーナーにマッサージをして戴いたりして、居心地が良く20分も休んでしまった。
名残惜しいがボロボロの体を鞭打つ様な気持ちで出発した。汗が乾ききって全身塩だらけだ。いくら塩の名産地でもこんな汚い塩は売れないだろうな、なんて呑気な事を考えながら走る。
 伯方・大島大橋の坂の入口あたりで、地元のおばさんが手を差し伸べてきて私の塩だらけの手を強く握り、
「本当に頑張って下さいね。」
と励ましてくれた。見ず知らずの他人に何でこんなに優しくして戴けるのか!感無量で返す言葉が出てこない。
ただ、「ウン、ウン。」とうなずくのが精一杯だった。

 大島、この大会の最後の島だ。島の沿岸では今が旬の鯛釣りが盛んだ。ふっくらと炊きあがった鯛飯が脳裏によぎる。と、同時にリタイアを待っている母親の顔も思い出した。
(ここまで来てリタイアしてたまるか!)
と強気な事を思うが、依然体は動かない。
 今は次のエードステーションだけが楽しみだ。(また休める。)ただそれだけだった。
次のエードステーションでボランティアの人が黒板を持って出迎えてくれた。
『歓迎、鉄人ランナー』
未熟な自分には、気恥ずかしかった。しかし、鉄人ランナーと認められた様な気がして、すごく嬉しかった。本当に疲れた者を喜ばせてくれる事がうまい。少しだけ元気がでた。
 5分休んで16時30分にエードステーションを出発する。すぐに長い坂道が始まった。いよいよ難所の峠越えだ。さすがに歩いているランナーが多い。

(歩いたら終わりだ。いくら遅くても走り抜くのだ。形だけでも。)と自分をふるい起たせる。
 登り坂で何人かを抜いたが、殆ど下り坂で抜き返された。それだけ体が動かないのだ。
82キロのエードステーションは吉海町役場を開放してくれていた。快適なエードステーションではついつい甘えが出てしまう。また、20分も休んでしまった。
 道沿いには、大きな石の彫刻が多く飾られていた。ここは大島石で有名な砕石の島だ。
やっと海が見えた。と同時に海峡の彼方に伸びる恐ろしげな建造物が目に入った。四国に架かる4キロにも及ぶ来島海峡大橋だ。来島海峡大橋は大島側から第一、第二、第三と3つの橋が繋がっている。橋の上にたどり着くには例のごとく長い階段とスロープが待っていた。しかし、登り階段もこれが最後だと思うとなぜだか元気が出てきた。
 橋は限りなく真っ直ぐだが、平坦ではない。3つのアーチを乗り越えて行かなければならない。遙かなる道。走れど走れど橋が続く。苦しかったが不思議とペースが上がってきた。今、体力の限界に挑戦する 。


 初めてフルマラソンを完走した時に家内の母が喜んでくれた。
 「親戚の中でそこまで走れる人は初めてよ。」
しかし、今度100キロマラソンに挑戦すると言ったら反対された。
 「100キロなんて走れるわけないわよ、絶対に。無理して体を壊したら元も子もないんだから。それに今年は厄年なんだし。」
 「厄年だからこそ体力の限界を試してみたいんです。」
と偉そうに反発した。しかし、その限界をそろそろ超えようとしている。

 時間は18時になっていた。本当は来島海峡に沈む壮大な夕日を眺めてみたかったのだが少し時間が早い。前夜祭で誰かが、
 「夕日の沈む頃に来島海峡大橋にいたんじゃあ、制限時間内にゴール出来ませんよ。」
と言っていたのを思い出して夕日はあきらめる。
 やっと第三大橋の終点にたどり着いて長い下りスロープを降りる。体をきしませながらも嬉しくなって思わず前を走る人に話し掛けた。
 「やりましたね!四国上陸だあ。」
 あと8キロ。92キロエイドステーションで冷たい麦茶をいただく。もう胃はお茶しか受け付けない。ゴールで待っていてくれている母親に「たぶん、あと1時間くらい。」と携帯電話で連絡をいれる。 あと5キロ。今治の市街地に入ると夕暮れが迫ってきた。重い足を1歩、1歩前へ出す。追い風に押される様に走る。
 哀愁を帯びて懐かしい黄昏時。1日の中でいちばん好きな時間だ。世の中の生命体のすべてが休息に向かっていく 。しかし、まだ休息するわけにはいかない。
 あと4キロ。96キロエイドステーションでボランティアの人に声を掛けられる。
 「あと4キロ、ファイトー。」
 「ファイト〜。」
と弱々しく答える。だが、もう止まらない。と言うより止まれない。ガソリンの無くなった車が惰性で走っている様な物だから。
(倒れるまで走るのだ。)
 あと3キロ。通りすがりの人が声援をしてくれる。
 「がんばって!」
 「ありがとう。ありがとう。」
と答えるたびに涙声になる。
 あと2キロ。まだ今治城は見えない。
 もう時刻は19時を回っていた。

 震災後1年たって正樹が生まれた。私達夫婦にとっては、明日香を忘れる為には良かったのかもしれない。でも、他人に
 「明日香ちゃんの生まれ変わりができて良かったね。」
と言われるのがとても辛いし悲しい。その人には悪気はないのは分かっているのだが…。
その正樹が私が初めてフルマラソンを完走した時に近所のスーパーでレジのおばさんに、
「うちの父ちゃん、42.195キロ走ってんで〜。」
と自慢していたそうだ。嬉しかった。静香もジョギングに付き合ってくれた。
 でも、その子供達はゴールにはいない。「子供には子供の用事があるさ。」なんて強がりを言ったが本当は寂しい。頑張っている父親の姿を観てもらいたかったのに。
(明日香だけは観ていてくれるよね。)

 あと1キロ。携帯電話が鳴った。誰だ今頃と思ったら、自宅に居る家内からだ。
 「もしもし、今どこ。」
 「はぁ、はぁ、あと1キロ。ゴールしたら連絡するから。」
 「え〜、まだ走ってんだあ、とっくにリタイアしてたかと思ったのに。」
まったく家の者は私が完走できるなんて全然思っていないらしい。
 あと、500メートル。すっかり日が暮れて暗くなった。街灯を頼りにお城を目指す。
 突然、暗闇にライトアップされた今治城が浮かび上がってきた。お城に渡る橋が見える。
(やったあ、完走だ。100キロを完走したんだ。これで終わるんだ、休めるんだ。)
歓喜が込みあがってくると同時に一抹の寂しさも湧いてきた。
(もう走れないんだ、旅も終わってしまうのか。それにしても熱い1日だったなあ。)
 大勢の声援を受けお城の坂道を駆け登った。あと50メートル。最後の角を曲がれば広場の向こうにゴールテープが目に入った。
(ありがとう、ボランティアや多くの声援を送ってくれた方々、みなさんのおかげで完走出来ます。明日香、やったよ!)


 ゴール。14時間35分21秒・・・。
重たい腕をあげた。そして、熱い風とともに倒れる様にテープを切った。
 すべてのエネルギーを使い果たし、嘔吐感と身体中の痛みに耐えながらも、体力の限界にいどんだ充実感に包まれていた。
 ふっと携帯電話に目をやった。いつの間にか留守番電話が入っていた。
「‥お父さん、静香です。100キロ完走おめでとう。すごいね。‥正樹です。お父ちゃんおめでとう。」
この時、完走を成し遂げた喜びとは別の熱い熱い感動が体の奥から込み上げてきた。
「俺は、3人の子供達の親父なのだ。」
そう叫びたかった。
(お父ちゃん、おめでとう。)
天国の明日香の声がした。 


 翌日、朝起きてみたら思ったより痛みは少なかった。何とか歩く事も出来る。
今治に居る親戚を訪ねて、100キロ完走出来た事を告げると驚きもし喜んでくれた。その完走記念にと私と母親とその友人とを海岸沿いにある料理屋「伊予水軍」に招待してくれた。部屋に入ると来島海峡大橋が観渡せた。(この海の向こうから走って来たのだ。)感慨深いものがあった。
 瀬戸内海の幸と、鯛飯を堪能した。これには、昨日今治城で3時間以上待たせてしまった母親もご満悦だった。
 帰りは今治のバスターミナルから福山へ高速バスで2時間だ。
「たった2時間か。」
思わずつぶやいた。
 指定されたバス乗場に向かう途中、ひと組の若い夫婦とすれ違った。軽く足を引きずっている。彼らも私に気がついてお互い軽く会釈した。
「足は大丈夫ですか?」
と声を掛けてきた。
「ええ、何とか。」
「それは良かった。じゃあ、また来年。」
「ええ、また来年。」
と言って別れた。
(来年かあ。)
 私は正直、来年の参加は考えていなかった。しかし、なぜだか急に来年もまた訪れてみたくなった。この大会には何か判らないが大切な物を貰った様な気がした。
「明日香、来年も来ような。来年は静香も正樹も連れてくるよ。その時はお父さん、もっとしっかり走れる様になるからな。」
(頑張ってね、お父ちゃん)
一陣の風が吹き抜けて行った。   (了)

   完 走 記


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