初フルマラソンの完走の後、数回のフルマラソンも2回の100キロマラソンまでリタイヤすることなく順調に完走し
ていきた。すると自分の気持ちにも(自惚れ心)が生まれて来たみたいだ。丹後100キロマラソンは初参加の時には何
とか完走できたものの2回目以後5年連続でリタイヤしている。特に2回目の時はひどかった。7月、8月にしっかりと
走り込まないとここのコースは完走出来ないのに自惚れ心からなめきってしまって全然練習せずに参加したものだから1
00キロどころか半分の50キロで沈んでしまった。
それ以後毎年7月、8月を少々練習しても丹後の碇高原を越える事が出来ない。
100キロマラソンで完走、リタイヤを繰り返しているうちにもっと長い距離を走ってみたくなった。そこで目に付い
たのが萩往還マラニックだった。
萩往還マラニックは山口県で、250キロ、140キロ、70キロ、35キロの種目があり往還道を通って開催されて
いる。萩往還道とは慶長時代に山陰と山陽を結ぶ参勤交代道として開いた山越えの険しい道だ。
140キロに挑戦
萩往還は圧倒的に250キロに人気があり300人くらいの参加者にくらべ、140キロは人気薄で120人くらいの
参加だった。140キロでもとんでも無いのに250キロとは世間にはすごい人がいっぱいいるものだなあ、と感心した。
250キロは48時間、140キロは24時間、夜を徹して走りっぱなしというまさに鉄人大会だ。
山口の瑠璃光寺を午後6時に「えいえいお〜!」の掛け声でスタートした。朝から雨が降り続いていてとてもやみそう
にない。スタート時からしっかりとカッパを着込んで走った。21キロ走って防府市で折り返して山口市に戻ってくる。
ここで42キロだ。カッパの中は汗で群れているしシューズはビショビショで気持ち悪い。エイドの山口福祉会館で食事
したあとここから真っ暗な雨の中萩往還道だ。本当にリタイヤしたくなった。
しかし、ここで知り合った人が道案内をしてくれるという事で泣く泣く出発した。今に思っても凄い体験をしたと思っ
ている。雨は一段と激しくなっており、往還道に入ったら霧が出てきて周りは真っ白だった。ヘッドライトの光は乱反射
してまったく使い物にならない。いわゆるホワイトアウトという状態だった。石畳の道は水浸しで滑るので恐る恐る歩き、
油断をしたら苔道で見事に転んだ。頼りになるのは「萩往還」という案内板だけだった。道の迷いそうになると後から来
る人を待って確認しないと前に進む事が出来ない。よく遭難しなかったものだ。
国道に出たときにはヘトヘトになっていた。ここまでほとんど歩いてきたのでここから走り出したのだが、疲れ切って
いて走りながらウトウトしてしまった。走りながら居眠りしたのは初めてだった。
国道から再び地道の往還道に入ったら、今度はごろごろの石道だった。おかげで萩市内の萩城址に着いたときには足の
裏の肉刺が痛くてたまらない状態になっていた。足を引きずるように走って笠山のテックポイントで肉刺の手入れをする
事にした。ここで案内してくれた人と別れて先に行ってもらった。靴下を脱いで驚いた。何と足の裏全体が肉刺のため水
膨れになってぐちゃぐちゃでとても手入れが出来るものじゃあなかった。
それでも東光寺まで我慢して走ったが、ここから先、この足の状態でとても往還道を引き返す自信はなかった。そんなふ
うに悩んでいたらちょうど横にタクシーが通り過ぎようとしていた。無意識に手を挙げていた。ここまで99キロ、何も
いう事はなかった。
250キロに挑戦
それから1年後、250キロの部に参加した。140キロの部に1度参加すれば250キロの参加資格が得られるの
で(完踏が条件じゃあない)その年からは250キロに挑戦する事にした。
250キロに挑戦したいと思ったのは、140キロをリタイヤした後の懇親会に参加した時だった。大会終了時間は午
後6時、懇親会は1時間後の午後7時からで、私は旅館でお風呂に入り十分に熟睡した後だったので元気に参加したのだ
ったが、たまたま隣に座られた人が、たった今ぎりぎりでゴールされてかなり疲れ切っていた。
やがて、乾杯が初めってみると、その人は最初の1杯は辛そうにゆっくりと飲んでいたが、2杯、3杯と飲んでいくう
ちに、ガンガン飲み出した。そして気が付いたら焼酎のお湯割りを飲んでいた。私は、隣で呆然としてまさに怪物を見る
思いだった。そして私はあこがれの眼差しでその鉄人に握手を求めた。
(当人は何のことかわからずにとまどっていたが・・・。)
「すごい!いつかは自分も完踏した後で豪快に飲んでみたい!」それがきっかけとなった。
やはり「えいえいお〜!」の掛け声でスタートした。上郷の駅を過ぎここからしばらくは長い登り道だ。ヘッドライトを
装着して夜道を走る。
豊田湖、俵山温泉、砂利ヶ峠を越えて大坊ダムのエイドあたりで夜が明けてきた。ここまでは順調だったのだが海湧食
堂を過ぎて俵島を回って来た頃には眠たさと疲れでグッタリした状態で歩いていた。川尻岬のカレーで少し元気を取り
戻し、その後川尻漁港で知り合った人と意気投合して厳しい千畳敷まで引っ張ってもらった。それから千畳敷の急勾配の
下りに疲れ切っていた膝が悲鳴をあげた。しばらくはひとり旅で仙崎から青海島の鯨墓までの往復を走ったり歩いたりで
再び仙崎に戻った。ここで知り合った人に宗頭まで引っ張ってもらい午後12時に到着した。宗頭で1時間だけ眠るつも
りだったのだが2時間も寝てしまいあわてて出発しようとしたら自分のシューズが無くなっていた。誰かが間違って履い
ていってしまったらしい。(後に大会本部に問い合わせたら自分と同じ形の2センチ小さいシューズが残されていたそ
うだ)
あきらめてリタイヤを覚悟していたら、この大会の有名人のKさんが予備のシューズを貸してくれる事になった。Kさ
んはいつも5時間くらい休憩して制限時間の午前4時に出発しているそうだ。今回もシューズをお借りして案内して頂く
事になった。
鎖峠を越えて三見駅から山道を行く。ここはみな真っ暗で怖いと聞いていたがそろそろ夜が明けてきたのでそれほどで
もない。日本海に出たときには完全に夜が明けた。
玉江駅に着いた時には膝が真っ赤に腫れあがり、借りた靴もやっぱり合わないのか足が痛くて迷惑をかけるのでKさん
には先に行って頂いた。それから萩城址を過ぎて萩市内をとぼとぼと歩いていたのだが、膝がズキンと来たときに足が止
まってしまった。ここまで約200キロ、もう十分だった。
その次の年は六甲山の練習で痛めた踝が痛み出して107キロ川尻岬でリタイヤ、その次の年も情けなく川尻岬でリタ
イヤでした。4回目の挑戦の時にはさすがに練習を積んで臨んだつもりだったのだが、142キロ地点の仙崎で時間切れ
になってしまいリタイヤしてしまった。
宗頭まででリタイヤした者は宗頭公民館で収容されて夜を明かすので私は3年連続「宗頭おはようございます隊」参加
したことになった。
大会の後の懇親会は毎年参加しているのだが、いつも「どこでリタイヤしたのですか?」と聞かれて小さくなってし
まう。ここでは100キロや150キロでリタイヤしてしまうと恥ずかしい世界なのだ。
5回目の挑戦、今回こそは「宗頭おはようございます隊」を卒業したかった。そのために3月8日に篠山、マラソンを走
ったのを皮切りに3月、4月の週末には40キロ以上走る事にした。(数回は土曜、日曜合わせて40キロ以上というの
もあったが)
それと今回はKBS京都ラジオ『Let's Run!』の走るパーソナリティ若林順子さん(わかちゃん)との約束が
あった。彼女は1年前に140キロの部を見事完踏していたので、250キロの参加資格があったのだが、「250キロ
なんて無理!」と挑戦しなかったのだ。それが武庫川スポーツクラブ主催の新年走ろう会が終わった後での宴会で私が2
50キロを誘うと最初は嫌がっていたのだがお酒の勢いもあって、4年連続リタイヤしている私が完踏できたら来年25
0キロに参加するという。俄然、大きな励みが出来た。
2009年5月2日、いざスタート。自分では十分に練習してきたつもりだったのにいざスタートラインに立つと不安
がいっぱいになった。やはり過去4年のトラウマだろうか?
例年よりもかなり速いペースで進んでいった。過去4年で一番早いペースだったのは初挑戦の時だったのだがその時と
比べてみると、海湧食堂で30分、鯨墓で1時間半、宗頭到着で2時間も早く着いている。しかも海湧食堂では美味しく
生ビールを飲むことも出来た。
午前0時過ぎに宗頭の公民館を出発したときには「今年こそは。」と言う期待と喜びにあふれていたのだが、萩市内に
入ってから笠山に向かう途中でバテてしまった。疲れと眠たさに襲われ、それから千畳敷でできた肉刺が痛んで自分では
走っているつもりなのだが140キロの部で歩いている人に着いて行けなかった。かなり精神的に落ち込んでしまい完踏
の自信もなくなってしまった。そんな時にわかちゃんとの約束が思い起こされた。彼女のHPでは「けっして
無理に頑張らないで下さいね!」って書き込まれていたのを思い出して逆に元気が出てきた。(我ながら嫌な奴)
そして、萩往還道に入って例のKさんに(今年も午前4時に宗頭を出発して追い越された)「あと時速5キロで走れば
いいから絶対にゴールできますよ。」
と励まされて(往還道みたいに厳しい道をこんな状態じゃ時速5キロは無理だあ!)とあきらめ駆けたときにも
「わかちゃんとの約束を果たさなければ。そしてなんとしてもゴールして、昔あこがれた鉄人みたいに完踏の美酒を飲む
のだ。」とほとんど枯れた気力を奮い立たせた。
萩往還道最高地点の板堂峠を越えると後は下りだ。途中から雨が降ってきたために滑りやすくなった石畳を慎重に歩き、
六件茶屋跡を過ぎてやっと天花畑に出た。これで往還道は終わりだ。後は下りの舗装路を自分でもどこにそんな力が残っ
ていたのかとビックリするくらいに走った。一の坂ダムを越え、天花橋を渡り木町橋北詰交差点を右折して、ついに、つ
いにゴールの瑠璃光寺が見えた。
沢山の声援を受けながら、すべての苦しみ痛みがなくなって瑠璃光寺の境内へと入っていった。ゴールテープを切った
瞬間、自分でも抑えられなくなり本当に泣きそうになった。
ネットタイムで47時間45分31秒・・・。
5年もかかってやっとの思いで250キロを完踏する事ができた。