「おい、新聞を見たか?」
友人のH君からの電話だった。
「なんやねん、突然に。」
「おまえこの前、ロト6買ったやろう?それ、見てみ。」
そう言われて財布の中からロト6の抽選券を出してみた。
「選んだ番号はこないだのマラソンにちなんだって言ってたやんか、今週の当選番号なんか近くないか?」
福知山マラソンの完走記念に第8回から第12回までのものを買ったのだが、マラソンの開会日が11月23日なので、
11と23、フルマラソンの距離が、42.195キロなので、42,19,05、そして自分の年齢が39歳だった
ので、39を選択したのだった。
「早よ、新聞みてみ。」
友人に促されて新聞を開いてみた。
「え〜っと、ロト6の第9回の当選番号は、11,19,23,38,39、42。それで、自分の番号が05,11,
19,23,39,42。なんか良くにてるなあ。」
「そうやろう、よく合わせてみ。」
「え〜と、05は無いなあ。11と19と23が合って38が無い。それと39と42が合っているわ。え〜っ、5個も
合ってるで。」
「ほんまか?なんかそんな気がしたから電話したんや。それで何等やねん。いくらになるんや?」
「え〜と、5個の数字があっているのは3等やなあ。3等はいくらかいうと、え〜と、ええっ、49万7千円。嘘や
ろう!」
「よう見てみ、間違ってへんか?」
「だから当選番号は、11,19,23,38,39、42。それで、自分の番号が05,11,19,23,39,
42、やろ。05が無くて、11と19と23が合って
38が無い。それと39と42が合っているからやっぱり5個も合ってるで。ボーナス数字は15で関係ないからやっぱ
り3等や。」
「やったなあ、50万や、おめでとう。」
「あた、あた、あた、あた、当たった、当たった!」
「祝杯しようぜ、飲みに行こう。」
「ご、ご、ご、ごじゅう、50万当たった、当たった!」
「おい、聞こえているか?祝杯しようや、どこに行くねん?」
「や、や、や、やった、やったあ!」
「お〜い!予約入れとこか?」
「あた、あた、あた、あた、当たった、当たった!」
ガチャ
そのまま電話を切った。
ロト6とは自分の好きな数字を6個選んで1枚200円で購入する。毎週1回抽選があって、配当金はその時の売り上
げによって違うが1等で最高4億円が当たることもある。6個の数字が全部あえば1等で、5個合えば3等、4個で4等、
3個で5等となる。またボーナス数字というものがあって5個の数字とボーナス数字が会えば2等となる。
ちなみにその時の第9回ロト6の当選金は、1等4億円、2等1700万円、3等49万7千円、4等1万円、5等3千
円だった。
思わぬ大金が転がり込んだので正直とまどった。
(これはフルマラソンを完走したお祝い金を神様から頂いたのだと思って大事に使わないといけない。)と思った。
しかし、「悪銭身につかず」の例えどおり何だかんだ入り用があって、2〜3ヶ月で使い果たしてしまった。それでもH
君からのお誘いからは逃げ続けたが。
思わずのお祝い金を頂いたからというわけでもないが、初めてフルマラソンを完走してからジョギングは順調に続いて
いた。確かにフルマラソンのダメージは大きくて、一ヶ月くらい膝痛は直らなかったが、完走の感動と喜びを再び味わい
たいと思ったものか、しばらくして少し癒えたら毎朝のジョギングは復活した。
そして、福知山マラソンから3ヶ月後の篠山マラソンもなんとか完走することが出来た。
その後も10キロやハーフマラソンなど多くの大会に参加し続けた。そして少しずつだがタイムも良くなってきた。段々、
自信も少しついてきた。
タイムが少しばかり良くなるとマラソンクラブの練習会にも参加したりして、友人いわゆる走友という人々ができた。
それまではネオン街をウロウロして朝帰りというのも珍しくなかったが、そういう場所は遠ざかっていった。それにと
もないその時の飲み仲間とも段々と疎遠になってきた。その代わりに走友たちと練習会の後で汗を拭って青空の下で飲む
機会が多くなった。楽しいお酒で後を引くことも無く時間もそこそこで終わる。それが目的でまた練習会に頻繁に参加す
るようにした。
春は爽やかな風に誘われて桜吹雪のなかを走り、ひと汗をかいてから花見の宴が開かれる。杯にひらりと落ちてきた一
枚の花びらに思わず感動する。
夏はギラギラの太陽に照らされて走り、大汗を拭ってからのキンキンに冷えたビールを飲む。頭の芯からキィーンと痺
れる感覚がたまらない。
秋は落ち葉をさくさくと鳴らしながら走り、やわらい日差しのなかで紅葉のように赤いワインなどを頂く。マラソン談
義で盛り上がりいつの間にか訪れた黄昏に驚く。
冬は六甲おろしのなか震えながら走りまわり、いつしかポカポカと心地よくなる。陽だまりのなかで飲む熱い焼酎に心
の中まで暖かくなる。
これこそ「飲むために走る」が充実できた。夜の街に出没していた酔いどれの不良おやじがいつのまにかアウトドアの
健康おやじに変わっていた。そして、初めてのフルマラソンでは疲れ切って飲むことができなかったゴール後の祝杯も友
人達と挙げる事が出来るようになった。
あるテレビを視て
フルマラソンを完走してから2年くらいたったある日、偶然視たテレビの番組で「四万十川100キロマラソン」の大
会を放送していた。フルマラソンがやっとやっとで完走できる程度の自分には、あまりにも遠い世界だった。
100キロを走り通せるいわゆるウルトラランナ−という怪物みたいな鉄人の集まりだと思われた。
早朝のまだ真っ暗な中スタートして、日本最後の清流とうたわれる雄大な四万十川に沿って2000人ものランナーが
走っていた。参加しているランナーはテレビで見ている限りそんなに怪物には見えなかった。ごく普通の人々だった。
秋の日差しを浴びて走るランナーのかっこ良さ。何となくうらやましい。
最初は何気なく見ていたのだが、後半になるに伴い段々と力が入ってきた。いつのまにか「頑張れ!」とテレビに向か
って声援を送る自分がいた。時間と空間を越えて四万十川の沿道で多くの人達と一緒に応援をしていた。
平気な顔で走っている人もいれば、必死の形相の人もいる。
常連で完走した人の余裕、なんとか制限時間内にゴールできた人の喜びと涙、途中で無念のリタイヤした人、制限時間
に間に合わなかった人の悲壮と嘆きなど、それぞれに汗と涙のドラマがあった。思わず感動して涙がこぼれそうになった。
参加した人全員を尊敬と憧れの目で見ている自分がいた。
(一緒に参加したい、あの空気を感じながらゴールしてみたい。)
そんな思いがふつふつと沸き上がってきた。
しかし、まだフルマラソンの完走が5,6回だけしか経験のない自分にはとても無理なように思えた。
走友で100キロマラソンを完走した人のアドバイスを聞くと月に300キロを走りこむ必要があるという事だった。
(でも、参加したい。)日がたつに連れ熱い思いが沸々と湧きあがっていきた。
とにかく、ゆっくり、出来るだけ長く、そしてたくさん走るように心掛けた。それでも月に250キロが精一杯だったが。
それと同時に少しでも制限時間に余裕のあるウルトラマラソン大会を探してみた。そのなかで、しまなみ海道100キ
ロウルトラ遠足は、広島県の福山市から愛媛県の今治市まで瀬戸内海の島々を走って渡るという「旅」の魅力がいっぱい
の大会だった。しかも制限時間が16時間なので多くの大会が14時間というのに比べて2時間ほど緩やかだった。
(「遠足」となっているが実際はウルトラマラソンであってルンルン気分で完走できるものではない。それに(えんそく)
と読むのではなく(とおあし)と読むという事を後で知った。遠足(とおあし)とは江戸時代に武士の心身を鍛えるため
に創出された遠距離走でいわばマラソンの事である。)
しかし、いくら時間に余裕があるといっても100キロである。とても自信はない。届いた申し込み用紙を見て悩み続
けた。穴があくほど眺め続けた。そして、気がつけばいつのまにか申し込んでいたのだった。
いつもながらの無鉄砲な性格に自分自身あきれ果てた。
朝もやの中に薄っすらと浮かんできた福山城。さすがに6月なので寒くはない。走るにはほどよい気温だろうか?
700人ものウルトラランナーが集まってきた。みんなが大きく感じるなかで自分が一番小さな存在だという事を感じた。
自分ひとり場違いなところに参加しようとしているのではないのか?しかも二日酔いで。実は昨日の夜は早く寝れ
ば良いものを前夜祭でついつい飲み過ごしてしまった。まったく、自分の愚かさ加減に物も言えない。
午前5時、しまなみ海道100キロウルトラ遠足がスタートした。
今までのフルマラソンなどにはないのんびりとした雰囲気がただよっていた。
「ぼちぼち、行きましょうか。」
といった具合なのだ。とにかく100キロ先の今治を目指して、(たどり着くやら着けぬやら)と思いながら出発した。
夜が明けたばかりの福山の街を通り抜けて、国道2号線を尾道に向かう。
朝の風が心地よく、それにペースはかなり落としているので気持ちの良い走りが出来た。しかし、二日酔いの頭痛はなか
なか取れないが。
尾道まで約20キロ、ハーフマラソンを走りきった距離だ。
(ここから瀬戸内海を越えるぞ!やっと、ハーフマラソンは終わった、あとフルマラソン2本だ!)
と気合を入れたつもりだったが、逆に気持ちがド〜ンと重くなる。
(あの辛いフルマラソンを2回も走るのか!)と思ってしまう。
この大会は割と平坦な道のりだとは聞いていたが、島から島へと渡る橋へは大体60メートルの階段かスロープを登っ
ていかなければならない。それらの橋が全部で7つもあった。
「これが恐怖の階段か!」
遊歩道から尾道大橋に登る階段を思わず見上げてしまった。昨日の前夜祭で去年は知った経験のある人に、
「橋を登る階段は大変だったですか?」
と聞いたのに対にてニンマリと笑って言った。
「知らないほうがいいですよ。」
ニンマリの意味が今わかった。20キロを橋ってきた足にはこの登り階段は過酷すぎた。
それでも何とか登り着いて橋の上を走っていると潮風が汗を拭ってくれる。足の下は瀬戸内海の海峡の絶景だった。大
汗をかいたおかげで二日酔いの頭痛もすっかり治っていた。
向島に渡ると自動車と分かれて島の一般道を走る。みかん農園を緑の香りにむせながら行くとやがて海岸沿いの道に
出た。露店で魚を売っている店があった。新鮮な瀬戸内の魚が並んでいる。
朝はあんなに心地よかったのにぐんぐんと気温は上がっていった。汗をびっしりとかきながら走り、またまた橋を見上
げた。
「次は因島大橋か。」
遙か上に階段が続く。走れない。ゆっくりと登ったが息があがり大汗をかいた。足もがくがくになった。しかし、この因
島大橋はすべての橋のなかで雄一日陰の橋だった。
島に渡った。ここ因島は昔、村上水軍という海賊の本拠地だった。
35キロのエイドステーションは、島に入ってすぐの所にあった。水軍の子孫みたいな髭もじゃのボランティアの人が
ランナーの為に一生懸命に生みかんジュースを絞ってくれていた。何とも言えない感謝の気持ちとみかんの美味しさが疲
れた体に染み込んだ。
日陰がほとんど無い。後で知ったことだが気温は29度にも上がり今年一番を記録したそうだ。頭がぼうっとしてきた。
次のエイドステーションでは水をがぶがぶ飲み過ぎて水腹になってしまった。それでも喉が渇く。
生口橋の恐怖の階段を登ってから生口(いくち)島に入り、海岸線を走って半分の49.5キロのエイドステーション
のある海洋センターにふらふらになりながらたどり着いた。ここで、スタート時に預けていた荷物を受け取って大休止と
した。
おにぎりを2つ頬ばって会館の中で座り込んだ。時間は11時、ここまで6時間かかった。疲れきって無性に眠たか
った。一度座り込んだら疲れ過ぎて体が動かない。しかも膝をはじめ胸、腹筋、足底などに痛みがでていた。今まで42
キロを越える大会には出た事がなかった。練習でも50キロまでだった。
40分ほど休んだあと出発したが、やっと歩いている状態だ。しかし段々と走りだした姿に自分自身で驚いた。(まだ動
いている。)
生口島は、平山郁夫画伯の生誕地で記念美術館があり、遊歩道や海中の岩礁に彫刻やオブジェが点在していてしまなみ
海道のなかで一番観光客の多い島だ。
やっと生口島を通り抜け大三島へ渡る多々羅(たたら)大橋を登る。長いスロープが続いた。
「階段も嫌いだけど、長いのぼり道はもっと嫌いです。」思わずぼやいていた。しかも上り終わったら多々良大橋は長い
橋だった。
どこまでも青い海、きらきらと光る水面。大小さまざまな島々が何とも美しい。
「来てよかった!」と普通の観光旅行なら言っていただろう。
多々羅大橋からの下りが急な坂道だった。痛む膝が悲鳴をあげる。ここまで61キロ、時間は13時。やっとの事でエ
イドステーションにたどり着くと、ボランティアの中学生が冷たいタオルを差し出してくれた。
「ひゃあ、生き返った。」 本当に生き返った気持ちになれた。
しかし、ここを出てからが地獄だった。大三島の永遠と続くと思われるような長い道を走っているとついに持参してい
た水筒の水はなくなってしまった。たぶん1日で一番暑い時間だと思う。日は照り付けるが汗は乾いてしまってあまり出
ない。しかも次のエイドステーションまでかなりの距離がある。近くに自動販売機もない。
暑さで頭がぼうっとしてきて走っているのか歩いているのかわからないような状態になった。
(暑い、苦しくて喉がカラカラだ。なんて辛いのだ。熱中症になってしまいそうだ。)
大三島橋の長い坂道をやっとの思いで登る。やたらと海が眩しい。
(ここでリタイヤかもしれない。)そんな事が頭をよぎった。
奇跡の復活
橋を渡って伯方(はかた)島に入るとやっと67キロのエイドステーションがあった。頭から水をかぶりそれから冷た
い水をがぶがぶと飲む。しかし、すぐには生き返れない。
少し座り込んで休憩したがまだ疲れがとれない。けれども、いつまでもここに居るわけにはいかないので、またふらふ
らと出発した。
(とりあえず前に進もう。)それだけだった。
しばらく行くと後ろから声をかけられた。振り向いてみると昨日の前夜祭で「しまなみの橋の上りは知らないほうがいい
ですよ。」とアドバイスをくれた人だった。
「本当に知らないほうが良かったでしょう。」
「ええ、すごすぎです。恐怖の上りですね。」
とため息をついた。
ここで再会したのも何かの縁なので写真を撮りあった。それからその人がペースを合わせてくれたので色々と話をしな
がらゆっくりと走った。すると不思議な事に復活してきたのだった。少しペースアップも出来た。この人から元気を分け
てもらったみたいだ。
70キロを越えた頃に突然、スピーカーで名前を呼ばれた。
「ヤッホー、頑張れ!」
地元の婦人会によるエイドステーションにたどり着いたのだった。冷たいソーメンを頂き、マッサージのサービスまで
あった。手を握ってもらって励まされて送りだされた。感激と感謝がいっぱいで再び復活して走り出す事ができた。
大島に渡って、次のエイドステーションでボランティアの人が黒板を持って出迎えてくれた。
『歓迎、鉄人ランナー』未熟な自分には、気恥ずかしかったがすごく嬉しかった。少しだけ元気がでた。
冷たいプチトマトがとても美味しかった。
5分休んで16時30分にエイドステーションを出発する。
すぐに長い坂道が始まった。いよいよ難所の峠越えだ。さすがに歩いているランナーが多い。82キロのエイドステーシ
ョンは吉海町役場を開放してくれていた。厳しい日差しを避けられる快適なエイドステーションではついつい甘えが出て
しまう。また、20分も休んでしまった。
次の峠を越えるとやっと海が見えた。と同時に海峡の彼方に伸びる恐ろしげな建造物が目に入った。四国に架かる4キ
ロにも及ぶ来島海峡大橋だ。来島海峡大橋は大島側から第一、第二、第三と3つの橋が繋がっている。
橋の上にたどり着くには例のごとく長い階段とスロープのダブルパンチだ。しかし、登り階段もこれが最後だと思うと
なぜだか元気が出てきた。
橋は限りなく真っ直ぐだが、平坦ではない。3つのアーチを乗り越えて行かなければならない。
(遙かなる長い道。走っても走っても道は続く。その先に何を求めているのか?)
苦しかったが不思議とペースが上がってきた。
(もうすぐ美味しいビールが飲めるぞ!)
黄昏まえの瀬戸内海、なぜだか心がはずむ。もうすぐ日が沈む。
人情と素晴らしい瀬戸内海の景観と心地のよい潮風に励まされて、7つ目の橋の来島大橋を渡りきって四国に上陸した時には、感激のあまり思わ
ず叫んだ。
「自力で瀬戸内海を渡ったぞ!」
ゴールの今治城まではまだ8キロ残っていたが、完走の確信はつかむ事が出来た。
あと8キロ・・・。92キロエイドステーションで冷たい麦茶をいただく。もう胃はお茶しか受け付けない。(完走の祝杯は挙げられるのだろうか?)
あと5キロ・・・。今治の市街地に入ると夕暮れが迫ってきた。重い足を1歩、1歩前へ出す。追い風に押される様に走る。
哀愁を帯びて懐かしい黄昏時。1日の中でいちばん好きな時間だ。世の中の生命体のすべてが休息に向かっていく。しかし、まだ休息するわけにはい
かない。
あと4キロ・・・。96キロエイドステーションでボランティアの人に声を掛けられる。
「あと4キロ、ファイトー。」
「ファイト〜。」
と弱々しく答える。だが、もう止まらない。と言うより止まれない。ガソリンの無くなった車が惰性で走っている様な物だから・・・。
あと3キロ・・・。通りすがりの人が声援をしてくれる。
「がんばって!」
「ありがとう。ありがとう。」
と答えるたびに涙声になる。
あと2キロ・・・。まだ今治城は見えない。 あたりはすっかり暗くなった。
もう時刻は19時を回っていた。
あと1キロ・・・。今治の街を走り抜ける。
(もうすぐだ!)自分で励ます。
あと、500メートル・・・。今治の中心街を抜けて街灯を頼りにお城を目指す。突然暗闇にライトアップされた今治城が浮かび上がってきた。お城
に渡る橋が見える。
ゴールのライトアップされた今治城は涙で霞んで見えた。お城の階段を駆け登りゴールテープに向かって、最後の力を振り絞り少しでもカッコよく(自分
なりに)走りきった。
14時間35分20秒。
(100キロだ、いつのまにか100キロを走っていたのだ!)
完全燃焼した1日は終わった。
30分以上は倒れこんでいたと思う。
(しかし何としても祝杯は挙げないと・・・。それが目的のひとつなのだから。)
気力を振り絞ってビールを買って一気に飲む。
(美味い!気持ち良い。)何ともいえない快感が訪れた。このために走ってきたのだ。
しかし、次の瞬間お腹が“ぎゅるぎゅる”と恐ろしい音を立てだした。疲れきっているのと一日水分ばかり取り続けていたので飽和状態を
越えたお腹が限界に達していたのだった。
それを無視して一気にビールを飲んだものだからものすごい勢いですべての水分が逆流してきた。そして・・・。