フォルクローロとはエスペラント語で(民俗)という意味だ。他には花巻駅はチエールアルコ(虹)、新花巻はステラーロ(星座)、岩根橋はフェル
ヴォイポント(鉄道橋)、宮守はガラクシーア・カーヨ(銀河のプラットフォーム)、釜石はラ・オツェアーノ(大洋)といった具合に29駅すべてに愛称
がついている。
列車が減速すると重たい荷物を持ち上げてドアに向かい駅に到着するのを待つ。列車が駅に止まっても右手にある「開」ボタンを押さなければド
アは開かない。さすがに寒冷地仕様だ。ボタンを押してドアを開けると清々しい風がなだれ込んできた。やっとたどり着いた。いくら新幹線が速いと
いっても大阪からでは8時間もかかり1日仕事だった。
ぶるっ、と身震いをした。10月の初旬だと、さすがに大阪とは気温差が大きい。遠野を訪れたのは2度目だが何回来ても期待で気持ちが高ぶる。
何だろう、出会い、発見、それとも…。しかし、今回は遊びでやってきたわけではない。前回も仕事で訪れている。今度こそ、という期待だろ
うか?
駅前に出てみると、広場に池があって何匹かのカッパが出迎えてくれる。ブロンズ製でなかなか良く出来ている。駅の隣は観光センターとお土産
屋さんがある。その隣に交番所がある。なんとその建物がカッパだった。遠野の警察はなかなかユーモアがある。
とりあえずタクシーを拾って仕事現場の食品工場に向かった。そこは車で10分ほどの距離だ。担当者に挨拶をする。この人は実直そうな岩手県
の気のいいおじさんという感じだった。
「ごくろうさま。あしたあ、午前6時から運転しますっから宜しぐ。」
「わかりました、では明日6時前には参りますから。」
この夏に食品工場が建設されたので、我社は設備の一部分の制御盤を納入した。それに伴って私も3週間ほど出張して、結局、今年のお盆は
この遠野ですごした。それから1ヶ月程たった今回は制御盤のプログラムの変更にやってきたのだった。
工場でタクシーを呼んでもらって、遠野駅までもどり、駅前のビジネスホテルにチェックインする。ホテルのマスターとは顔なじみになっていた。
まあ、前回あれだけ滞在すれば大抵は覚えていてくれると思うが。
「遠いところごくろうさまでした。今回は何日ご滞在ですか?」
「今回は、3泊で大丈夫だと思いますけど。」
「そうですか、もうお食事の用意ができています。」
マスターはきれいな標準語を使うが、岩手弁は私にはさっぱりわからない。また、同じ岩手弁でも地区によって少し違うらしい。まあ、関西人の私に
は外国にいるような感じだからどちらにしても同じだが。さっそく部屋に荷物を置いて食堂に落ち着いた。私が何も言わないのに、
「まずは、ズモナビールですね。」
マスターは3週間続いた習慣を覚えていてくれていて、地ビールをジョッキーに満たしてくれた。
「ぷふぁ、うまい。」
このホテルは安くてしかも食事が豪勢だ。長期の出張の時は食事だけが楽しみだった。今晩も羊の焼き肉とホヤの和え物がでた。羊の肉は遠野の
名物らしい。また遠野は昔から三陸海岸と内陸部との中継地でわりと魚介類も新鮮だ。ホヤは一般的にホヤ貝といっているが実は貝類ではなく、な
んと脊椎動物なのだ。関西ではあまりなじみが無いので写真で見ただけだが何ともグロテスクな姿をしている。山の幸と海の幸でゆっくりと地ビール2
杯で舌鼓をうつ。
せっかくまたここまで来られたのだから、明日か明後日にでもなんとか自由な時間が作れないものかと期待を抱いていた。機械の運転サイクルは
約3時間なので、3サイクルしても9時間。明日は午前6時から運転なのでうまくいけば午後3時には仕事が終わる予定だが、そんなに都合よくいくか
どうか?
食事を済ませてから部屋に戻り少し寒いので、暖房を入れようと思ってスイッチを入れたが涼しい風が流れてくるだけだった。そこでフロントに電話
をしてみると、
「暖房ですか?この時期はまだ入れてないです。」
やはり感覚のちがいなのだろう。しかたがないので毛布に包まって寝酒に買った地酒を飲みながら柳田国男の遠野物語を読み返してみた。
この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをり訪ね来たり、この話をせられしを筆記せし
なり。鏡石君は話上手にはあならざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一字をも加減せずに感じたるままを書きたり。思ふに遠野郷にはこの類の
物語なほ数百件あるならん。われわれはより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝
説あるべし。願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ。〜略
(遠野物語 序文より)
社会人になってからほとんど運動らしい事を継続して行った事はなく、どこかに出かけるにしても車が多かった。また、いつも週末にはどこかに飲
みにいっていた。大学を出てから10年で10キロ体重が増えた。そんな不摂生な生活を続けていて、6年程前のある日の事。正月用にと一斗樽
を買い込み3日間おせち料理で飲み続けていた。4日目の朝、突然足の踵が腫れ上がって痛みで歩けなくなってしまった。医者に行って血液検
査を受けた結果、通風と診断された。それに中性脂肪とγ―GPTの値もひどいものだった。そしてついに医者から宣告されてしまった。
「通風に脂肪肝。あきらかな成人病だね。食生活の改善と運動不足を解消しないと一生薬を飲み続けなければいけなくなるよ。」
(まだ、30代なのに。)
ショックが大きかった。しかし、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかない、何とかしなければと考え込んだ。そして、毎朝5時に起きて家の周りを
30分から40分歩く事にした。実際に歩いてみると、朝の空気の清々しさを初めて知った。散歩をしている見知らぬ人達と挨拶をする。これも大きな
発見だった。そしてなにより体調が日に日に良くなった。体重も少しだけだが減少した。
そのうちに少し走ってみたくなった。しかし、最初は500メートルも走り続けられなかった。自分の体力の無さに愕然とした。大学時代にサイクリン
グ部に所属していて日本全国(少し大げさだが)を走破してきた経験から、体力には自信があるつもりだったのにこの有様だ。
少し走っては歩いて、また少し走っては歩いてを繰り返して、少しずつ少しずつ走れる距離を伸ばしてきた。1キロ、3キロ、5キロと走れるようにな
ってきて、走り始めて3ヶ月後に10キロのマラソン大会に参加した。
スタートをした直後からまわりの人達の流れに飲まれてしまって、日頃練習しているペースよりも格段に早く走ってしまった。心臓がこのまま止まって
しまうかと思うほど苦しかった。何とかゴールした時はとても立っていることができなかった。しかし、ゴールできた喜びと充実感は最高だった。
「あしたあ、朝6時から運転の予定だが、1回だけやっでその後は夕方まで工場の点検さあるから、もさげねがまた午後5時頃に出直してください。」
「そうですか、しかたがないですね。では、わかりました。そのようにさせて頂きます。」
といかにも残念そうに答えておいて心の中では、
(やった、明日は昼前から夕方まで時間ができた。)
喜びを噛み殺した。忙しい時は時間に関係なく仕事をして時間が出来れば自由に使う、そこが自営業のいいところだ。サラリーマンなら、なかなか
そうもいかないだろう。
最初から自営業をしていた訳ではない。むしろ一生サラリーマンとして終わっていたかもしれない。確かに父親は一代で会社を興し自営業として
やってきた。しかし、自分はサラリーマンの道を選び他所の会社に勤めていた。
その父親が癌で倒れた。入院してから1ヶ月というあっけなさで他界した。亡くなる数日前に病室で父親と2人きりで話をした。
「お前は将来をどう考えているんや?」
「どうって?」
「一生サラリーマンをするんか?」
私はしばらく考え込んでしまった。そして、
「せっかく、父さんがここまで築いてきたものやから、これで終わらしたくないよ。」
すると、今まで頑固一徹で、特に家族には甘えた所など見せたことのない父親が
「ありがとう、嬉しく思うで。」
と涙声で言ってくれたではないか。この一言で人生が変わってしまった。
会社といっても零細企業なので従業員3名で、しかも新社長は20代の右も左もまったくわからない状態での再スタートだった。騙されたことも何回
かあった。それでも今日まで何とか15年やってこられたものだ。
ジョギングでトレーニングも兼ねながら観光をすると、歩いて移動するより時間が短縮されてより行動範囲が広くなる。乗り物を使って旅をすると、
どうしてもスポットでしか行けないので、その土地のうわべの空気しか触れる事ができない。その点、歩いたり走ったりして訪れると、もっと身近にそこ
に吹く風を感じることが出来るのだ。
ホテルを飛び出したのが午後4時頃だった。駅前から正面にまっすぐ街中を走りぬけて鍋倉城跡の公園に向かった。遠野市立博物館の前から石
段が続く。途中に南部神社があった。10円玉を賽銭箱に入れて、
「家内安全、無病息災、交通安全、商売繁盛、子供達の学業祈願、マラソン完走・・・。」
お賽銭の金額のわりに少し欲張りすぎたかなあ、と少し反省した。遠野は早池峰山、六角牛山、石上山の霊山に囲まれた盆地で、遠い昔から海岸沿いの釜石から内陸部に通じる釜石街道の中継拠点として栄
えた城下町である。展望台からの遠野の市街はなかなかの眺望だ。緑に包まれた素敵な町並みだ。城下町のなかを流れる来内川。遠くにおもちゃ
のような2両編成の列車が走る。
(昨日あれに揺られてやって来たのだなあ。)
としみじみと思った。
(遠野物語 2話より)
(遠野には早池峰、六角牛山、石神という山があり、それぞれの山に若い女神が住んでいて今もこれを領しているので遠野の女達はその妬を恐れ
てこの山には遊ばすと言われている。)
途中に『程洞のコンセイサマ』の看板があったが、この道から分かれてさらに細い道を入っていく様子なので、今回は通りすぎる事にした。五百羅
漢の入り口についた頃には、かなり日が傾いていた。ふっと、入り口にある看板を見て凍りついた。
『熊、危険!』
「普通は『熊、注意!』やろう。『危険』ってどういう事や。」
あたりを見渡すが誰もいない。背筋が寒くなる。しかも五百羅漢はここから森林の中に入った所にある。今にも熊が飛び出してきそうな雰囲気だっ
た。しかし、せっかくここまで来たので取りあえず少しだけ行ってみる事にした。
恐る恐る森林に入っていって、五百羅漢の石仏を探すが足が地に付かない。やっと、それらしい石仏を見つけたが苔むしていてなかなかはっきり
と判別がつかない。
あたりはかなり暗くなっていた。もうこれまでだ、と決めたら一目散に森林から逃げ出した。猿ヶ石川に架かる愛宕橋の方に向かって山道を駆け降
りた。必死で走っていたら、ガサッ、ゴソッと草むらで音がして、いきなり黒い物体が目の前をよぎった。
「うわっ!」
思わず叫んでしまったが、よく見るとカラスが飛び立ったのだった。
「ふう、なんだあ、びっくりさせるなよ。」
心臓が止まるかと思った。そしてさらに早く走った。このスピードでマラソンに参加したらかなり良い成績になるかもしれない。しばらく山道を駆け降り
て行って、やっとの思いで民家のある所に出てきた。
(ここまでくればもう安心だ。)
ほっと、ため息をついた。
その民家の前を通って奥まった所に、結びの御利益があるといわれる卯子酉(うねどり)様という祠がある。
(遠野物語 35話より)
(遠野の愛宕山の下に卯子酉様の祠があり、そのそばの小池の淵の主に願をかけると男女の仲が結ばれたという。またその主は時々姿を召せた
とも言われている。)
愛宕神社の長い急な石段が見えたが、さっきまでの恐怖心がまだ取れないので石段の下で参拝する事にした。それから愛宕橋で猿ヶ石川を渡っ
てから、農道を少し走って国道283号線に出た。今までの道と違ってけっこう車が多いが、熊とかけっこをする事を思えば気持ちが落ち着く。すでに
真っ暗になっていた。 しばらく国道沿いの歩道を走っていたら段々と街の明かりが見えてきた。市街地に入ってから国道と別れて遠野駅に向かう。
ホテルの前まで帰ってきた時にやっと人心地がつけた。その晩、ホテルで飲んだズモナビールは格別の味だった。
部屋に落ち着いてから、前回この遠野にやって来たときの事を思い出していた。制御盤を大阪から搬入してもらったのは友人のU君で、本当はこんな事があった。U君は「何でも屋」的なところがあるので私の仕事を手伝ってもらうために遠野に少し滞在してもらった。その日は急遽、お客さ
んの立会いのもと現場の水まわりの配管試験が行われる事になった。工事自体遅れ気味だったので、突然の立会い試験には現場監督をはじめ
現場はみんなピリピリしていた。やっと試験をする部分の配管が終わったので、立会い試験の前にテスト運転をする事になった。そして、ポンプを
起動させるとあちらこちらの配管で水漏れが起こってしまった。特に配管とゴムホースの結合部の水漏れがひどかった。
「何やってんだ、何とかしろ!時間がないんだぞ。」
現場監督が怒鳴ると
「すみません、すみません。」
と担当責任者はただオロオロするばかりだった。すると、U君が針金とプライヤーを持ってきて、
「取りあえず応急処置しときまっせ。」
率先してゴムホースの先端を締めてまわった。
「あいつは、誰だ。なかなか頼りになるなあ。」
U君は別に配管工事に関わっていたわけではないのに、その場で現場監督に気にいられてしまった。
何とか水漏れも収まって、これからお客さんの立合いのもとで本番の試験が始まろうとした時に、
「ほな、わいは帰りますさかい。」
「どこに?」
「大阪にですがな。ほな、さいなら。」
と言い残してさっさと帰って行った。U君はその日の午前中に帰阪する予定だったのだが、トラブルが発生したために気の良い彼にしてみれば少し
手伝っただけの事なのだが、あまりにも唐突な去りぎわに現場監督は唖然として、
「何じゃあ、あの変な関西人は?」
と洩らしていた。その後、U君は「変な関西人」と呼ばれるようになった。こうして今一人で酒を飲んでいると当時の忙しくも賑やかで楽しかった事が
蘇ってくる。秋の夜は長く感じた。
翌日、午前6時に食品工場に行って、1サイクルの工程だけ立ち会ってから10時には予定通りホテルに引き上げた。Tシャツとランニングパンツこの辺りはJA関係の建物が多い。ビールのホップ工場もある。実は仕事場の食品工場はこの近くにある。夏の出張中にはホップを満載したトラッ
クをよく見かけた。ここのホップは某大手ビールメーカーから遠野産(鞠花一番絞り)として、秋限定で売り出される。最初、鞠花と聞いたときは
(マリファナ)と聞き間違えて大恥を掻いてしまった。鞠花とはホップの日本での愛称だそうだ。ぜひ飲んでみたいものだ。
「え〜!」
思わず悲鳴に近い声を上げてしまったのだった。なんと、車のリアガラスが無くなっていたのだ。その変わりにブルーシートがガムテープで貼り付
けてあった。そしてリアハッチをあけてみると粉々に割れたガラスが飛散していた。
「誰やねん、こんな事したんわ〜。」
泣きたくなった。その晩は車をそのまま駐車場に置いといてAさんにホテルまで送ってもらった。ホテルでAさんと一緒に遅い夕食をとっていた時に、
「本当に誰がやったのでしょうね。それにしても顔色がよくないですね。」
「参りましたよ、ふう・・・。ビールが美味くないですよ。」
「まあ、明日には誰かが名乗り上げてくれますよ。」
「そうなってくれればいいのですがね。」
その夜はなかなか寝付かれなかった。
翌日、現場に来て警察に連絡して事情を説明すると制服を着たおまわりさんがやってきた。一見よくテレビで見かける田舎の駐在さんという雰囲
気の人だった。そして、一通り車を調べてから言った。
「まんず、ここまで後始末をして帰っているから悪気があっての事じゃあないでしょう。まだ警察には報告さきてないけどそのうちに名乗り出てきますよ。
とりあえず辺りに聞きに行くっぺ。」
そう言ってから現場の隣のホップ工場に事情徴収に行ってくれた。その結果、すぐに事故を起こした当事者は割れた。朝方、その当事者からホッ
プ工場の工場長に事故を起こしたとの連絡が入って、工場長から連絡するとすぐにここにやってくるという事になった。正直言ってホッとした。
待っている間、おまわりさんと工場長が岩手弁か遠野弁かわからないが何か話している。隣で聞いていたらまるで外国語だ。しかし、ところどころの
単語をつないでみると、
「ホップがどうの、収穫がどうの、ホップの背が高いだの、おっかないだの、キン○○が縮むだの、」
という事はわかった。いったい何の話だろう?
そうこうしているうちに当事者がやってきた。朴訥そうな田舎のおじさんだった。彼はペコペコと謝りながら私に近づいてきた。でも何か言っているの
だがわからない。そこでおまわりさんが訳してくれた。
「昨夜、ホップを満載したトラックをバックさせたらお宅の車にぶつかったそうですよ。でも、あたりは真っ暗だしあたりに誰もいないので取りあえず雨
が降ったらいけないと思ってブルーシートで養生だけして引き上げたそうですよ。でもね、その時はすぐに警察に連絡してもらわないとね。」
あとはその人の保険で大急ぎで修理する事と、その間の代車の手配をしてくれることで話がついた。そして出張の最終日には修理は完成した。
「すみません、駅までここからどれくらいありますか?」
「そうですね、ここからだと4キロくらいありますよ。」
「え〜、まだそんなにありますか。どうも、有難うございます。」
ため息をついて疲れた様子で走り去って行った。
途中で歩道がなくなってしまったので、車が横を通ると気を使う。時折観光バスが走り抜けていくと、ヒヤッとする。それでも雨の心地がいいので
鼻歌を歌いながらのんびりと県道を走っていく。
(ここまで、良く来られたものだ。)
スタートしてから沿道の応援にもまた感動して目がウルウルとなった。
(全然知らないこんなにも多くの人が応援をしてくれている。)
20キロくらいはマイペースで快調に走る事ができた。しかし、30キロを越えると膝が悲鳴を上げだした。息があがって疲れもピークに達してきた。
あと1キロの道のりが永遠の長さに感じた。坂を登りきったカーブを曲がったところにゴールはあった。両手をあげてゴールした瞬間、時間が止まっ
た。
「やった〜!」
膝の痛みも息苦しさも疲れもすべて消え去り涙だけがあふれた。1年間の毎日の積み重ねが達成された瞬間だった。今までこんなに感動した事が伝承園では昔の遠野地方の農家の生活形態を伝承するために、重要文化財に指定された旧菊池家の南部曲り家と呼ばれる農家を再現して
いる。また、園内には遠野物語の話者だった佐々木喜善(鏡石)記念館もあり、その足跡を展示していた。記念館の中を観て回ると何か感慨深い
ものがあった。
この話を知って思わず目頭が熱くなった。そして、自分も生後4ヶ月で亡くなってしまった娘のことと重なった。
1995年1月17日、出張先から徹夜で車を飛ばし川西市の自宅に着いたのは、午前3時だった。出張中は家内と子供達を芦屋市の家内の実(遠野物語 69話より)
(昔あるところに貧しい農夫がいた。妻はなく美しい娘がいて、1頭の馬を飼っていた。その娘が馬を愛して厩舎に行ってともに寝ねてやがて馬と夫婦に
なってしまった。ある夜父親がその事実を知ってしまい娘に内緒で馬を連れ出して桑の木に吊り下げて殺した。それを知った娘は死んだ馬の首に
縋って泣きいた。それを怒った父親は斧で馬の首を切り落としてしまった。するとたちまち娘は馬の首に乗ったまま天に昇り去ってしまった。)
まだTシャツが半乾きなので見学しているうちに段々寒くなってきた。伝承園を出て県道340号から別れて東に1キロほど走ったところが常堅寺
だ。境内にはカッパ狛犬があった。何とも頭のお皿が愛らしい。裏にカッパ淵とよばれる所がある。自然の小川がそのまま庭園になったようで、本当
にカッパが出てきそうな感じだ。カッパ淵の祠の横にブロンズのカッパがいる。遠野に来るとたくさんのカッパに会える。さっき寄った伝承園の前に
巨大な木彫りのカッパがいた。土産屋さんもカッパのグッズだらけだ。
(遠野物語 58話より)
(小烏瀬川の姥子淵に馬曳きの子が馬を冷やしにやってきた。子供が遊びに行ってしまったときに河童が出てきて馬を川に引き込もうとしたが、
逆に馬に引きずられて厩の前まで来てしまった。家の者がやってきて伏せてあった馬槽(うまぶね)をあけて見たら河童の手が出てきた。河童を捕
まえて村中の者が集まって殺そうか許そうかを評議した。結局、今後悪戯をしないと約束をさせて逃がした。その河童は村を去って相沢の滝の淵に
住んだという。)
池の周りを散策すると、一人のおじさんが池の端で釣竿を垂れて座っていた。良く見ると糸の先には、何ときゅうりがぶら下がっていた。
(本気かな。)と思っていたら、おじさんの向こうからレポーター風の女の人とテレビのカメラマンが現れた。
「おじさん、何をしているのですか?」
「カッパを釣っているのですよ。」
「へえ、本当にカッパが釣れるのですか?」「この、きゅうりで釣れるのですよ。」
と言うようなやり取りをしていた。後に知った事だが、このおじさんは運萬さんという人でカッパの出そうな日にカッパ捕獲に挑戦しているそうだ。どこ
のテレビの取材か知らないが邪魔にならないように隅の方で見ていたが、体が冷えてきたので、早々に退散した。
「もしもし、次の仕事の打ち合わせをしたいんやが、今度いつ来てもらえるんかなあ?もしもし、あれ、ちょっと聞こえにくいなあ。」
得意先の担当者からだった。さすがにまっ昼間にジョギングで観光しているところだとは言えない。
「もしもし、今岩手県の遠野の食品工場に来ているのですよ。」
「岩手の遠野、えらい遠くに行ってるんやなあ。でも岩手県でも電波は届くんとちゃうの?」
「はい、すみません、工場の建物の中なので。5時くらいに出られると思いますからこちらからお電話させてもらいますわ。」
携帯電話は便利だが常に監視されているみたいで困ったものだ。しかし、電源を切っておく勇気はない。
ここは昔、姥捨てがあった場所だ。満六十歳になったらこの野原につれてこられて共同生活をおこない、わずかに近在の畑仕事を手伝って生計
を立てていた。そして、足腰が立たなくなれば寂しく死んでいった。今ではぽつんと『デンデラ野』の碑だけが立っている荒涼とした野原だ。
(遠野物語 111話より)
(山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵、各地にダンノハナといふ地名ある。その傍にこれ
と相対して必ず蓮台野という地がある。昔は六十を超えた老人はこの蓮台野へ連れてこられる習慣があった。老人はいたづらに死んでしまこともな
らないために、日中は里へ下り農作して作物をもらって生活した。そのために今も山口土淵辺では朝に野らに出ることをハカダチといい、夕方野ら
から帰ることをハカアガリといふという。)
あたりを見回して誰もいないのを確認してから、ポーチからおもむろにハーモニカを取り出した。ゆっくりと静かに「旅愁」を吹いた。とてもひと様にお
聞かせするようなシロモノではないが、この地の精霊にはしばらく我慢していただく。吹き終わるとそよ風が吹いてきて林がサワサワとそよいだ。精霊
たちの拍手なのか、それとももうけっこうだ、という事なのか。とにかく郷愁にひたれた事に自己満足してその場を立ち去った。
時間は午後2時を過ぎていた。午後5時に仕事の現場に行くには、あと2時間くらいでホテルに戻らなければならない。しかし、まだ寄ってみたい
所がいくつかあった。今までのんびりとかまえていたのが少し焦ってきた。もと来た道を引き返して街道から再び県道340号にでた。県道340号線
を北上すれば山崎のコンサイサマがあるのだが、そこに立ち寄るには時間が足らなかった。諦めて遠野駅に向かって小鳥瀬川に沿って走る。
伝承園を通りすぎて午前中に濡れ鼠になって走って来た道を戻る。さっきとは大違いで少し汗もかいてきた。県道と国道283号線との交差点に
出て国道を花巻方向に走る。途中で国道と別れて北に少し行くと『サムトの婆』の碑があった。神隠しを題材にした民話が遠野物語に載っている。
とても寂しい話だ。
黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)といふ所の民家にて、若き娘梨の樹
の下に草履を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさ
らぼひてその女帰りきたれり。いかにして帰つて来たかと問へば、人々に逢ひたかりしゆえ帰りしなり。さらばまた行かんとて、ふたたび跡を留めず
行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰つて来さうな日なりと
いふ。
(遠野物語 8話より)
(黄昏に女や子供で家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じである。松崎村の寒戸(さむと)という所に、若い娘がいた。ある城跡を降りて少し離れた所に、阿曽沼公歴代の碑があった。阿曽沼氏は遠野を鎌倉時代から約400年間統治していた。その歴代の墓石というわ
りにはこぢんまりとしていた。
そのすぐ近くに太郎カッパがある。昔、川に洗濯に来る女性に悪戯をする太郎というカッパがいたそうだ。遠野にはあちらこちらにカッパの伝説
がある。
川には河童多く住めり。猿が石川こと多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕(はら)みたる者あり。〜略
(遠野物語 55話より)
遠野の駅前のそば処で遅い昼食をとった。遠野そばを注文して、暮坪カブを摩り下ろした薬味で食べた。暮坪カブは遠野の名産品で形は大根
を小さくしたような物だ。ワサビほど強い香りや辛さはなく、さっぱりした程の良い辛さで、そばの香りを引き立てる。目立たず隠れず陰の功労者とい
うところか。
ホテルに帰った時は午後4時を少し過ぎていた。大急ぎでシャワーを浴びて作業服に着替えてからタクシーで食品工場に向い、何とか約束の午
後5時に間にあった。
機械の運転調整に立ち会っている時にオペレータの人が言った。
「あんだ大阪かね?今年は阪神タイガース、強えだべ。」
「どうもおかげさまで。」
「あんだもタイガースファンだか?」
「ええ、一応。」
「おれもタイガースファンだ。」「へえ〜、本当ですか?珍しいですね!」
「そうだべ、遠野ではおれだけだべ。」
「そうでしょうね。」
たまたま鞄に今年から募集が始まった阪神タイガースの公式ファンクラブの申し込み用紙があったので提供すると、
「ここじゃあ、こんな物はどご探しても手に入らねべ。」
といたく喜んでくれた。さっそく、入会して遠野でただ一人の公式クラブ員になるという。
仕事は午後9時ごろに終わった。これで今回の出張仕事はすべて終了した。タクシーでホテルに戻ったが、この運転手さんがまたゆかいな人で「東京では車を呼んだら、そご行くまでの料金もとられるが、この辺じゃあ往路の料金はとりませんよ。」
「へえ、そうなんですか?」
「だから、気にせずにどんどん利用して下さい。」
「じゃあ今度機会があったらぜひお願いしますよ。ところで、冬はこの辺も雪で大変でしょう?」「雪は多ぐないけっど、凍結すっでよぐ車が滑るのですよ。だから此処らじゃあ少しぐらいゴッツンコしだってお互いさんだで、もさげねで済むのです
よ。」
「へえ〜、都会じゃあゴメンで済めば警察はいらないって言われちゃいますよ。」
今晩は遅いのでホテルで食事が取れないから途中のコンビニに寄ってもらって、弁当とビールを買って帰りお腹を満たした。せっかく最後の夜な
のに残念だ。昨日の残りの地酒を飲みながら、ランニング誌を読んでいた。今まであまり趣味は長続きした事がなかったのに、走る事だけは続いて
いる。より大きな目標と、その成し遂げた時の達成感からだろうか?
疲れ過ぎて体が動かないのだ。しかも膝をはじめ胸、腹筋、足底などに痛みがでてきた。今まで42キロを越える大会には出た事がなかった。練習
でも50キロまでだ。考えてみればフルマラソンを2回完走した後に、まだハーフマラソンを1回完走しないとゴールできない距離なのだから当然と言
えば当然だ。割と平坦な道のりだとは聞いていたが、島から島へと渡る橋へは大体60メートルの階段かスロープを登っていかなければならない。
それらの橋が全部で7つもあった。
70キロを越えた頃には、ただ惰性で動いているというような状態だった。
突然、スピーカーで名前を呼ばれた。
「風来坊(仮名)さん、ヤッホー、頑張れ!」地元の婦人会によるエイドステーションにたどり着いたのだった。冷たいソーメンを頂き、マッサージのサービスまであった。手を握ってもらって励ま
されて送りだされた。感激と感謝がいっぱいで再び走り出す事ができた。
人情と素晴らしい瀬戸内海の景観と心地のよい潮風に励まされて、7つ目の橋の来島大橋を渡りきって四国に上陸した時には、感激のあまり思
わず叫んだ。
「自分の力で瀬戸内海を渡ったぞ!」
ゴールの今治城まではまだ10キロ残っていたが、完走の確信はつかむ事が出来た。
あと5キロ、3キロ、2キロ、そしてあと1キロ。
ゴールのライトアップされた今治城は涙で霞んで見えた。お城の階段を駆け登りゴールテープに向かって、最後の力を振り絞り少しでもカッコよく
(自分なりに)走りきった。
14時間35分20秒。完全燃焼した1日は終わった。
それから、今まで100キロマラソンは3回挑戦してきた。戦歴はしまなみ海道も含めて2勝1敗1引き分けだ。1引き分けというのは今年の4月に体の事を考えて始めたジョギングだが、100キロも走ると体がボロボロになる。途中で血尿が出た事もあるし、自分は大丈夫だが胃をやられる人も
いる。終わってから検査をした事があるが赤血球が減少していて再検査を受けさせられた。
それなのに、なぜそんなに辛い思いをしてまでウルトラマラソンに参加しようとしているのか?
完走した時のゴールでの感動か?それとも、苦して長い道のりを乗り越えた達成感か?自分でも良くわからないけれど、自分自身に自信が持てる
ようになった事は確かだ。
新入社員の頃、仕事で何をしても失敗だらけだった。また、入社してすぐに上司にゴルフをするように勧められたが、どうしても自分に合わないのか
全然上達しなかった。だから情けない事にすぐに止めてしまった。
努力すれば何でも出来るようになる、と人は言うけれど何をどう努力したら良いのかが判らない。自分なりに努力をしているつもりなのだが、目標も
持てずに劣等感を感じていた。そんな気持ちを持ち続けたままサラリーマン時代を過ごした。与えられた仕事に対しては何とかやりくり出来るように
なったが、自分の仕事の範囲内でしか物事が考える事ができないという不安を常にかかえていた。もし、会社を辞めなければいけなくなったらどうす
ればいいのか?
そして父親の死によって自営業となり、右も左も判らない状態で、ただ体力だけが頼りで闇雲に突っ走ってきた。今の仕事に対して少し自信が持
てるようになった頃、得意先の倒産によって不渡り手形だけが残った。「泣きっ面に蜂」という言葉があるように、そんな時に不摂生がたたり通風にな
ってしまった。その他に血液検査の結果、肝臓、コレステロール、中性脂肪などもボロボロな状態だった。正直、落ち込んでしまった。
そんな時にジョギングと出会った。毎日、繰り返し練習を積み重ねると少しずつ距離が延びた。5キロが10キロになり、21キロに挑戦して、つい
にフルマラソン。目標をもって努力をすればやがて大きな夢がかなう。それが達成出来たらより大きな次の目標が、100キロマラソンへの挑戦だっ
た。辛く長い道を走っているのに気持ちは常に前向きになれた。ゴールが出来た瞬間には今、自分が輝いているという自信、そして他人が出来
ない事ができたという自負によって、日頃のストレスはかなり発散されている事だろう。
あれだけ悪かった健康診断の結果も、今では健康優良児の烙印を医者からもらっている。しかし、どうした物だか体重の方は始めたときはどんどん遠野南部家は盛岡南部藩の支藩として元々は八戸を統治していたのだが、江戸時代初期に国替えを命じられた。当時では珍しい女当主の清
心尼公が中心になって善政を行ったらしい。そのために、遠野ではお寺や神社などは八戸の流れを汲むものが多い。清心尼公の墓所は横田城
の城跡の近くにあったのだが、昨日は時間に追われて立ち寄る事が出来なかった。武家屋敷の残る町並みを散策して、市街を流れる来内川沿
いを歩く。この川には「やまめ」が生息している。どうりで町の近くで熊も出没するはずだ。
大手橋を渡ったら遠野市立博物館がある。遠野にきてから博物館などは1度も訪れていなかったので入ってみる事にした。午前9時に開館したば
かりだったので、一番初めのお客だったらしく館内は誰もいなかった。館内は「遠野物語の世界」「遠野の自然とくらし」「遠野の民俗学」とのコーナ
ーに別れていて、「遠野物語の世界」ではマルチスクリーン・シアターで昔話の世界を映像で上映しており、「遠野の自然とくらし」では生活と民
間信仰と自然との関わりを紹介している。「遠野の民俗学」では遠野の民俗学の先駆者の伊能嘉矩と佐々木鏡石(喜善)の紹介と遠野物語の
原稿等が展示されていた。
色々と興味深いものがあり、丁寧に観て回りたかったのだが時間がいくらあっても足らない。今度訪れる事ができたらゆっくり見学する事にして急
ぎ足で通り抜けた。遠野市立博物館を出て駅に向かった。あと15分。結局、駅までジョギングになってしまった。どうしていつも最後の詰めが甘いの
だろう。遠野駅で花巻方面行きの2両編成の列車に乗った。今度はいつ遠野を訪れる事ができるのかと思うとなごり惜しい。しかし、来週には長野県
への次の出張が待っている。
大阪生まれの大阪育ちの自分にとって、都会は快適で便利で住みやすい空間だ。幼い頃、下町でそだった記憶からだと思うが、都会の街角に
日が落ちる黄昏時は大好きなひと時だ。夢中で遊んでいて、辺りが夕焼けで赤くなってきた頃「ごはんだよ。」って呼ばれて家に帰って行く友達
の後姿と夕飯の匂いが蘇る。
今では近郊のいわゆるベットタウンに住んでいるが、別に田舎というほどの物ではない。所帯を持つようになっても、家内も芦屋生まれの芦屋育ち
なので、連休に帰省する必要がないから民俗大移動の大渋滞に巻き込まれる事もない。気苦労がない分楽なはずなのになぜだか、ふっと田舎
に故郷がある人が羨ましい時がある。故郷に誰かが待っていてくれる。そして、年に1度くらい里帰りをして、幼き日々、山や河で一緒に遊びまわ
った友人達と再会出来たらいいなあ。やがて定年を迎えて故郷に戻り、自然に恵まれた田舎で住むようになると、のんびりと余生を送れるだろな
あ。遠野はそういう幻想を抱かせる町だった。
しかし、それは気まぐれで我が儘な通りすがりの旅人の戯言だ。夏から秋にかけての穏やかで温かくて優しい季節しか知らないで、厳しい東北
地方の冬など経験した事がないからこんな気楽な事が言えるのだろう。第一、自分に田舎暮らしなど出来るわけがない。憧れと現実とは違う。故郷
は心の中だけに描くものだ。
そういえばある女子中学生に手紙で返事を書かなければいけなかった。ウルトラマラソンと出会うきっかけになった、10月の中頃に高知県四万十
市で開催される四万十川ウルトラ100キロマラソンに参加を申し込んでいたのだ。どうしてもテレビで観たシーンが忘れられずに、あのゴールの仲
間に入りたかったからだ。そして、その受付確認の返事の中に中村中学校の女子生徒の応援メッセージが同封されていた。この大会は中学生達
もボランティアで参加しており街中あげての行事なのだ。
「マラソンがんばって下さい。手紙で伝えるので、気持ちは伝わるかどうか分かりませんが、絶対に応援しています。つかれてもあきらめないでがんガタゴトガタゴト、秋の日差しの中を列車に揺られながら、次はどう書こうかとぼんやりと想いに伏せた。 (了)