始まりは突然に
社会人になって学生時代とは違いお酒を飲みに出かける機会が格段に増えた。ほとんど週末は何処かに飲みに出かけて
いた。外に飲みに行かないときには家で晩酌していた。休刊日なんて0だった。結婚したら少しは落ち着くかと思われた
が全然変わらない生活だった。どれだけ酒を飲んでも酔いつぶれることがなく何時間でも何日でも飲み続けることが出来
たらいいなあ、陽気に楽しく酔っ払えたらどんなに幸せだろう、なんて考えていた。しかし、現実は甘くない。毎日飲み
過ぎて翌朝、目が覚めたらお決まりの地獄の始まりだ。頭痛、胸焼け、むかつき、吐き気、何度お酒の無い世界に行って
見たいと願ったことか。しかし、その日の夕方にはまたお酒にたっぷりと浸った世界に飛び込んでいくという繰り返しだ
った。そして、まったく運動らしい事はしていなかった。会社の通勤は車。飲んで遅くなるとタクシー。1日歩く距離は
100歩なかったかもしれない。そんな生活を送っていたある日、衝撃は突然にやってきた。
それは、お正月用に一斗樽を買い込んで
「これで飲み放題だ。」と大満足でお正月の間、飲み続けた。3日目になって足の踵が少し痛んだが軽い風邪の影響だと
思って気にもしなかった。
そして運命の4日目がやってきた。朝目が覚めたら突然、足の踵に激痛がはしった。とても立っている事ができない。指
で踵に軽く触れてみただけなのに転げまわるほど痛かった。1日寝ていたが悪くなる一方だった。ズキン、ズキンの周期
が短くなる。どうしようもなくなって医者に行って検査を受けた。その結果は何と尿酸値が高く痛風だという判決を受
けた。そしておまけに肝臓のγ-GTPの値も高く、おまけに中性脂肪、コレストロールともろくな数値じゃあなかった。
医者に宣告された。
「明らかにお酒の飲みすぎですね。それから食生活の乱れ、特に肉類が多い。いったい毎日どれくらいお酒を飲んでいる
のですか?」
「ええっ、まあビール1本くらいかなあ。」
「それだけですか?」
「それと、お酒2合ほど。」
「それだけ毎日飲んだら飲み過ぎですよ。」
「あのお、それに寝酒にウィスキーの水割り2杯ほど。」
「それなら痛風になってあたりまえですよ。そして何よりも運動不足です。まだ若いのにこのままじゃあ大変な事のなり
ますよ。」
38歳にして成人病になってしまった。ショックが大きかった。痛風もショックだったが、何よりも肝臓の具合を知るγ−
GTPの値が悪いのは酒飲みにしては最大の問題だった。
しかし、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかない、このままじゃあ一生お酒が飲めなくなってしまう!何とかしなけれ
ばと考え込んだ。まずは、食生活の改善から取り組んだ。
ひとつ、しばらく酒はやめる。
ふたつ、牛肉と豚肉は食べない。肉は魚と鶏肉だけにする。
みっつ、野菜を中心の食生活にする。
よっつ、お腹いっぱいまで食べない。
今までお風呂上がりには必ず飲んでいたビールが牛乳になった。お風呂上がりに冷蔵庫の前で牛乳を飲むのは空しかった。
そんな涙ぐましい生活を半年くらい続けてから再検査を受ける事にした。その結果はすばらしく良いものだった。
「尿酸値がさがっていますね。それに他の値も正常値になっていますよ。ただ、尿酸値が少し下がりすぎなので薬を毎日
飲むのから1日おきにしてみましょうか。」
薬というのは毎日習慣で飲んでこそ飲めるのであって、1日おきなどでは忘れかねない。実際に最初の内はなんとかトラ
イしていたのだが、その内に昨日薬をのんだのか何時飲んだのかわからなくなってきて、最後にはやめてしまった。
走ってみよう
何か運動をすることにした。昔、まだ学生だったころ自転車に寝袋と飯盒を積んで家を飛び出したきり何日も放浪した
事があった。だが、今さらそうもいくまい。取りあえず朝5時に起きて家の周りを30分から40分歩こうと思った。し
かし、2月の早朝は真っ暗だった。それに眠たいし寒いのでなかなか布団から出られない。毎日が自分との格闘だった。
最初はサボりがちだったが、そのうちに季節はめぐり段々暖かくなって朝5時でも明るくなってきた。そうなると歩きに
出る日が増えてきた。実際に歩いてみると、朝の空気の清々しさを知った。散歩をしている見知らぬ人達と挨拶をする。
これも大きな発見だった。そしてなにより体調が日に日に良くなった。体重も少しだけだが減少した。
仲間で入った焼き肉屋で肉の焼けるにおいに誘われそうになりながら野菜をかじった。すき焼きの前で涙ぐみながら豆
腐としらたきをすすり込んだ。牛にかぶりつく夢を見た。
そんなある日、仕事関係の懇親会に参加した。初めはウーロン茶のグラスを持っていたのだがいつの間にかビールのグ
ラスに変わっていた。それから、2次会。気がついた時にはビールのグラスがウィスキーのグラスに進化していった。(
なんと意志の弱いことか!)
ああっ、このままじゃあいけない。このままじゃあ結局、前の生活に戻ってしまう。酒と肉食。どちらも一緒にやめられ
るわけがない。医者はどちらも程々に加減をすればかまわないと言っていたが、自分にしてみれば程々が一番危ない。程
々が結局(蟻の穴からダムが決壊)という事になりかねない。酒と肉食、どちらかに決めようと悩みに悩んだ。
そこで、一大決心をした。この日から晴れて酒は解禁ということになり、また制限がなくなった。しかし、そのかわり牛
肉は自分のメニューから永久追放されることにした。
そんなくだらない一大決心をしながらも不思議とウォーキングは続いていた。1年が経ちまた冬がやってきた。暗くて寒
い中まじめに続いていた。それも毎日1時間くらい汗をかいていた。
そのうちに少し走ってみたくなった。しかし、最初は500メートルも走り続けられなかった。息が切れてめまいがし
て自分の体力の無さに愕然とした。学生時代サイクリング部に所属していて日本全国(少し大げさだが)を走破してきた
経験から体力には自信があるつもりだったのにこの有様だ。落ち込んでいてもしかたがないので、少し走っては歩いて、
また少し走っては歩いてを繰り返して、少しずつ少しずつ走れる距離を伸ばしてきた。やがて1キロ、3キロ、5キロと
走れるようになってきた。
走り始めて3ヶ月後に3月の中旬に初めてマラソン大会に参加した。大阪の舞島で開催された10キロマラソンだった。
スタートをした直後からまわりの人達の流れに飲まれてしまって、日頃練習しているペースよりも格段に早く走ってしま
った。心臓が喉からせり出してしまうかと思うほど苦しかった。喘ぎながらもなんとか51分で完走できた。ゴールした
時はとても立っていることができなかった。しかし、完走できた喜びと充実感は最高だった。
(こんな自分が10キロも走れるようになったのだ。)
我ながら感心した。そして、その晩に飲んだビールの味は格別だった。
「そうだ、自分は飲むために走るのだ。」
そう心に堅く誓うのであった。
さまざまな体験
4月満開の花の下、芦屋ファンランで2回目の10キロを完走した。何か自分に自信が芽生えてきたような気がした。
それに走っているのがいいのか肉食をやめたのが良かったのか薬を飲まなくても尿酸値もγ-GTPの値は正常値だった。
走り終わった後は盛大な花見をおこなった。やはり、完走できた後の友人、家族での酒盛りは最高だった。
そして6月、京都の嵐山で賀茂川の河川敷で行なわれた小さなマラソン大会で、ついに念願のハーフマラソン(21.
0975キロ)を完走することができた。その日は6月にしては蒸し暑くてなかなか厳しかったが2時間9分で走り終わ
ることが出来た。
(思えば走り始めて2ヶ月、良くここまできたものだ。)
完走後に河川敷でひとり祝うワンカップ、これもこれで美味かった。
夏は普通マラソン大会は開催されない。しかし、琵琶湖ジョギングコンサートは炎天下の8月に琵琶湖湖畔の琵琶町で
開催される。この大会はマラソンの後、フォークソングシンガー、高石ともやの野外コンサートがあるのでファンも多く
毎年3000人の参加者がある。この大会でも10キロのレースを完走することができた。さすがに暑くてバテバテのゴ
ールだったが、高石ともやのマラソン賛美の歌を聞きながら楽しいビールを飲んだ。
「実りの秋、9月。ぶどう畑の中を駆け抜ける神戸ワイン城マラソン」
名前の響きが何だか嬉しくなる大会だったので、
(ゴールしてワインで乾杯だ!)なんてルンルン気分で参加した。10キロマラソンも何回かとハーフマラソンも1回完
走していたので自信というか自惚れがあったので、この2回目のハーフマラソンも軽く考えていた。
しかし、スタートしてから大きな勘違いに気が付いた。なんとここはアップダウンの連続するクロスカントリーコースだ
った。息があがりながら走っていたが、10キロを過ぎた頃右ひざに違和感が出てきて、やがて痛みに変わった。
(痛い、痛い、限界だ。)
ついに18キロ地点で右膝の痛みに耐え切れなくなってその場でうずくまってしまった。座り込んだら今までの疲れがで
たのか貧血でめまいがしてきて気分が悪くなってしまった。
(ついに初めてのリタイヤか。)
と思った。すると、すぐにスタッフが気付いて近寄ってきてくれた。
「大丈夫ですか?」
「いいえ、もうダメです。ここでリタイヤします。」
と言ったのだが、そのスタッフの人は困ったような顔をして、
「えっ、リタイヤですか?それは出来ません。ここは回収車がないのでなんとか自力でゴールまで帰ってもらわないと。」
「え〜っ。」
しかたが無いので少し休んでからクラクラしながら、痛い右足を引きずりながら残り3キロを歩いて2時間45分で惨め
なゴールをした。という訳でリタイヤはお預けで一応完走となったわけだ。しかし、とても完走の美酒に浸っている状態
じゃあなかった。残念!
(初めての挫折。それと膝の痛み。こんな痛みがでるならこれから走ることが出来なくなるかもしれない。)
なんて、悪い方に落ち込んで考えるのが苦手なので、(次は何とかなるだろう。)と、引き続き11月初旬の淀川シティ
マラソンのハーフの部に参加した。ここのコースは9月のワイン城と違って淀川の河川敷という恐ろしく平坦な道だった。
そのおかげで膝の痛みは少し再発したが、なんとか2時間6分のタイムで完走できた。
フルマラソンに挑戦
20代の頃、友人と酒を飲みながらよく夢のような話をした。
「いつかはフルマラソンを走れるようになって,ホノルルマラソンに参加したいなあ。」
「行きたいね。でも相当練習しないと無理だよ。たぶん1キロも走れないぜ、俺たち。」
「よし、明日から走ろう。」
話しはいつもそれでおしまい。練習なんていつの事やら。たらふく酒を飲んだうえの話だった。それがどうだろう、
あと半年程で40歳になる。
「30代でフルマラソンを完走したい!」そういう念願が現実味を帯びてきた。それも通風という成人病になったおか
げで。
11月23日、ついにその日がやってきた。まだ9月に痛めた膝に不安は残っていたが何とかなるだろうと、フルマラ
ソンの福知山マラソンに挑戦したのだった。
京都府福知山市三段池公園。痛風を宣告されてから2年、ジョギングを始めてから11ヶ月目によくこのスタートライン
に立つことが出来たものだ、という喜びと誇らしさがあった。
福知山マラソンは1万人という参加者の多い全国でも有数な市民マラソンである。さすがに1万人が集まると壮観なも
のだ。しかも自分より余程に健康管理ができた鉄人達の集団だ。よくこんなに走る人がいるものだなあと、感心するとと
もに自分が一番小さな存在に思えてくる。その集団の一番後ろのほうに並んだ。制限時間は5時間、目標は制限時間内
完走。
音楽とバ〜ン、という号砲とともに、1万人のランナーがスタートした。すごい人の流れだ。号砲はしたけれど自分達
の周りはまだ動けない。1〜2分経ってやっと前が歩き出した。まだ走れない。スタートラインのゲート下を潜ったのは
号砲がなって7分ほど経ってからだった。
三段池公園の坂道を下って、福知山の市街地を走って行く。福知山の町の人々のなんと応援の多い事か。自分なんかに
も応援をして頂いていると思うと感動で思わず涙が浮かぶ。
由良川の橋を渡る時に体がふらっと感じた。
(めまいか?もう疲れがでたのかなあ。もしかしたら貧血か?)
と思ったが、そうではなさそうだった。なんと、何千人というランナーによっては橋が共振したのだった。
市街地を1周して10キロを超えた。いよいよ由良川沿いの道を大江町に向かう。沿道に椅子を出して声援を送ってい
るおばあさんが居る。小さな子供達が手を振る。
「ありがとう、ありがとう。」
疲れが出てきているのだがそれを忘れて感謝する。今までこんなに素直に感謝する気持ちになれた事があったのだろうか?
晴れやかな空にぽっかりと浮かぶ雲。雲がビールの泡に見えてくる。実はマラソンのために1週間前から禁酒をしてい
たのだった。1週間も酒を飲まなかったのは痛風を宣告されて以来だ。次から次からと景色は流れる。大勢で応援幕を挙
げて声援している人々、家族を応援しているのだろうか?沿道の家の中から声が聞こえる。子供達が並んでハイタッチを
待っている。念仏を唱えているおばあさんがいる。
(うん、それは少し違うような気がするけどなあ。)
でも、なぜか嬉しい。早く完走してビールを飲もう。
しかし、心の余裕も半分の21キロまでだった。ここからはまだ越えたことの無い未知の世界だ。段々と息も苦しくなっ
ていた。沿道では大江山の赤鬼や青鬼もハイタッチで応援してくれている。ブラスバンドの演奏もはげみになる。
24キロ付近、大江町で折り返し地点がある。ここから今まで走ってきた道のりとほぼ同じ距離を走って戻ることになる。
テレビで視るマラソンランナーはカッコ良く折り返していたが、自分はというとフラフラのヨレヨレでターンした。
30キロを越えると膝が悲鳴を上げだした。(やはり出たか!)と思ったが良く考えるとここまで走ってきたのだから膝
が痛むのは当たり前のことだろう。息があがって疲れもピークに達してきた。沿道の応援に応える元気もなくなってきた。
本当に申し訳ない。
32キロを超えた。ここのエイドステーションでお汁粉のサービスがあった。「最高にうまい。」と普段あまり甘いもの
を口にしない酒飲みが絶賛する。
さあ、あと10キロ。10キロマラソンの時の苦しさがよぎった。(なんとか走り通すぞ!)と思うが体が言う事をきた
ない。歩いている人をみかけると自分も立ち止まりそうになる。(ダメだ、ダメだ、歩くともう走れないぞ!)と何とか
堪える。
37キロ、最後の関門を越えた。ここまでくればもう途中、時間切れでリタイヤさせられる事はない。時間も4時間を過
ぎた頃だ。あとは最後まで粘り続けるだけだ。
ふと見るとスタッフの人がエアーサロンパスを噴きかけてくれている。思わず駆け寄って痛んだ膝に噴きかけてもらった。
臭いには少しむせたが膝の痛みは和らいだ気がした。
40キロ。あと2キロ。ここまで来れば完走は確信できた。でも、ここからの上り坂が最後の難関だ。(ゴールではビー
ルが待っている。お汁粉も良いがやはりビールだ。)自分で激励するが、さすがに40キロを走ってきた身体はヘトヘ
トだ。坂の途中で応援の声が聞こえる。
「あと2キロ、頑張れ、頑張れ〜。」
声援はとっても嬉しいのだが、全然余力の残っていない今の状態では
「頑張れ。」はなかなか辛い。
(もう充分頑張っているやないか。これ以上、どう頑張れって言うねん。)
と思っていると大阪のおばさん風の人の声が聞こえた。
「頑張れ、頑張れ〜。て、言うても、もう十分に頑張っているもんなあ。」
と変に納得していた。その言葉がおかしくて少し元気が出てきた。
あと1キロ。まっすぐ坂が続く。この道は天まで届いているのじゃあないか、と思うくらい永遠の長さに感じた。やがて
坂を登り終わり右に曲がればゴールのアーチが見えた。
ゴール、4時間29分。
「やったあ〜。ビールだ。」
両手をあげて倒れこむようにかけこんだ。瞬間、時間が止まった。膝の痛みも息苦しさも疲れもすべて消え去り心ならず
しか涙腺がゆるむ。1年間の毎日の積み重ねが達成された瞬間だった。今までこんなに感動した事があっただろうか?
戦い終わって
ゴールから少し離れた休憩広場で、ぜいぜいと咳き込んでへたり込んでいると、すぐ隣でやはり座って苦しそうに息をし
ている自分と同じ年頃の男の人と目があった。自然と頬がほころんだ。すると相手もニッコリと微笑み返してきた。たっ
たそれだけの事だったが共に戦ってきた戦友と心が触れ合ったような気持ちになれた。
戦い終わってさあお待ちかねのビールだと、思ったがなぜだか全然ほしくない。近くで走り終わって缶ビールを飲んで
いる人達がいるのに、自分は飲みたくないのだ。と言うより体が受け付けないのだ。つくづく自分の未熟さを感じた。
(情けない飲むために走ってきたのに。よおし、いつか走り終わってから元気に楽しくビールが飲めるようになるぞ。)
と心の中で誓うと同時に、
(いつのまにか42.195キロを走っていた。)
と思うとひとりニンマリとするのであった。 (第2部につづく)